ブラタク製糸の実務を担うことになった前記二人の内、天野賢治は1905(明38)年、横浜市に生まれた。地元の商業学校を出た後、近衛聯隊勤務(少尉)を経、横浜の糸商に就職、ニューヨーク支店に派遣された。(糸商=生糸を主として絹糸、絹織物も扱う商社)
ここで1929年から10年間、勤務した。その末期は日米関係が悪化、開戦も予想されていた。
天野は両国の経済力の格差を考え、帰国に危険を感じブラジルに転住した。ブラ拓の商事部に入り、生糸の販売に従事していた。ブラタク製糸が設立されると同社に移り、リオ市場の開拓や米国、欧州への輸出を担当した。
もう一人の谷口章は、1902(明35)年、兵庫県に生まれた。京都の高等蚕糸専門学校を出、農林技官として埼玉県の試験所に勤務の後、家業=蚕種製造=を継いだ。が、事情があって、1927(昭2)年、跡を親族に譲ってブラジルに移住した。
その数年後、ブラ拓がバストスで蚕種製造を始めているが、気温の高さが禍して、病気が出やすかった。元々、蚕種製造は難しかった。しかし確かな技術者がいなかった。責任者の畑中仙次郎は、苦慮していたが、偶々、自分と同じ兵庫県人で京都の専門学校を出た男がブラジルに来ていることを知り、探し出した。これが谷口であった。その時、谷口はリンス近郊のカフェー園でコロノをしていた。
苦労していたという。畑中に招かれ1932年、バストス入りした谷口は、ブラ拓の製糸工場で良品質の蚕種を製造した。が、周囲の下士官根性に嫌気がさし、辞めてしまう。しかし谷口が居ないと上手く行かない。畑中は既述の蚕糸業者組合が発足の折、谷口を呼び戻し、ブラタク製糸設立後は工場管理を一任した。
蚕糸王国
バストスの主産物であった綿は1938年から市況が下落、また土地の疲労で収穫量も低下していた。一方、ブラ拓製糸設立の頃から、生糸の市況が上昇しつつあった。市場が日米戦争の臭いを感じ取っていたのである。日本は生糸の主たる輸出国であり、開戦となれば、それが途絶える。マタラーゾなどが、繭を積極的に買い始め、そのコンプラドールがバストスにも現れていた。
1941年末、日本が開戦、生糸の市況は高騰した。蚕糸業界は大好況期に入り、バストスでは養蚕家が忽ち250戸を越した。同年のブラタク製糸の生糸生産量は5・5㌧であったが、米、欧からの需要が強く、とても応じられなかった。そこで1942年から翌年にかけて、座繰機数を倍増、大枠揚返工場と繭の乾燥場を各一棟建て、160馬力のボイラーを新設した。
この好況に煽られて、二人の入植者が共営で、クルゼイロ製糸会社を設立、繰糸機30釜を設備、生糸生産を始めた。
同年、またも組合がつくられた。バストス養蚕組合という名称であったが、前にあった組合と紛らわしいので“新組合”と通称された。参加者は養蚕家など70人であった。新組合は1944年、クルゼイロ製糸を買収した。
同年、バストス産組が州立銀行から巨額の融資を受け、大型蚕種製造所を建設することになった。
前出の上田絹織物も、蚕種・製糸工場をつくり、社名を上田製糸と改めた。ランシャリアのコレイア・フランコ製糸会社(非日系)もバストスに蚕種製造所をつくった。
1945年、個人の小さな製糸工場が4カ所できた。養蚕農家は620戸に増えていた。
綿に代わり、蚕糸業はバストスの主産業となっていた。「蚕糸王国バストス」という呼称が生まれたほどである。その景気で各地から転入者があり、バストスの人口は6千人から1万1千人に膨れ上がった。
ブラジル全体で見ても、蚕糸産業は一挙に膨張した。製糸工場は小規模な所も含めると、1945年には120~140カ所となっていた。
(つづく)