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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(49)

 正輝が興味を示したのは、哲学、歴史、政治、特に最近の日本の政治に関する記事だった。みんなが読み終わった本は彼が保管できるように願いでて、自分自身のために図書箱をつくろうとした。家の食堂と居間に本をおく場所をつくった。本の数は少なかったがそれは宝物だった。本を所有することが誇りだった。だから、みんなの見えるところに置かなくてはならなかった。と同時に、宝物だから、価値あるものとしてだいじに扱わねばならなかった。それからというもの、引越荷物は増えていき、そのほとんどが書物で占められるようになっていた。この書物は正輝がブラジルで手にいれた唯一の財産である。
 この貪欲ともいえる読書熱は、論理的な思考をたかめ、別の分野に才能をあらわすことになった。当時、日本人会では弁論大会が盛んだった。正輝は演説が好きになった。自分の意見を述べる練習をした。人前で話すとき、いや友だちと話すときさえも論理的な話し方をした。誇張することで、弁論が正当性をますとも考えた。聴衆もそう思った。雄弁家となり、ほとんどの場合、猛烈に自論を主張し、相手をとき伏せることができた。そのため地域の日本人の間で、思想家として名が知られるようになった。
 もちろんこの日本人のなかに沖縄人が含まれていたのはいうまでもない。管内の思想家だといわれるようになった。沖縄県人の間でもそう呼ばれたが、思想家など必要なかった。理論はずっと以前から明治天皇のみごとな思想によって確立されていたではないか。正輝には政治的に胸深くたたきこまれた天皇の思想、同時に移民たちで構成された同一民族社会のなかで高く評価されている大和魂の理論を普及させ、実践させる者としての役目を自覚していたといえるかもしれない。
 正輝や移民たちには帝国主義や領土拡張論を、日系人以外に普及する考えなど、もうとうなかった。ただ、日本人意識をたかめるだけでなく、その理想を日常生活の辛苦を緩和するための手段としてつかったのだった。
「俺は正真正銘の日本人だ。いつか必ず日本に帰ってやる。いまの苦労は一時的なものだ」と正輝は考えた。現実を克服し、忍耐し、母国に帰るための手段にすぎない。
 保久原の家族は気楽につきあえる沖縄同胞の活動にも参加するようになった。
 正輝にはどのように作ったのか見当もつかないのだが、何人かの沖縄人が三線をつくりあげた。三線は沖縄固有の楽器で、1392年、当時、琉球の首都、首里郊外にある文化中心地の久米村に中国人がもってきた楽器だといわれる。3本糸の弦楽器で、共鳴管の胴体には蛇の皮がはられ、見かけはがさつだが、その音色は類をみないすぐれたものだ。これをまねて日本では三味線が造られたが、胴体には絹などの他の材料が使われている。三線の棹は黒く塗り、ていねいにヤスリをかけ、まるで漆を塗ったように光らせてある。
 糸巻きは下に2本、上に1本つき、円錐形で楽器に挿入されるほうが細く、10センチほどの長さだった。ごく普通の三線の駒は竹でつくったもの。上質の三線の糸巻きは縦に彫刻がほどこされ、それを横向きにすると、円花飾りがならんでみえる。職人のなかには丹精こめて糸巻きの先に骨の円花飾りをほどこす人もいた。楽器の下方、胴体の真んなかあたりに、横にしてつける駒も骨で作る場合もあった。