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『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(14)

騒乱

 終戦と同時にバストスが半ば壊滅してしまった…その時期、この国の邦人社会は、別の理由で騒乱状態に陥っていた。
 その騒乱は、実は戦時中から始まっていた。サンパウロ州のノロエステ線、パリスタ延長線その他で、農家の養蚕舎が焼討ちされたり、薄荷畑が破壊されたりしたのである。絹や薄荷油は、祖国日本が戦っている米国に輸出され軍需物資になっているから、利敵産業であり天誅を加える、と…。
 これは――当時流布し以後長く信じられ続けた通説によれば――興道社という秘密結社の犯行ということになっている。が、1990年代以降の筆者の調べでは、何の裏付けもない虚説である。
 それについては、実際に焼討ちをした当人や興道社の社員だった人たちの証言を基に、拙著『百年の水流』改訂版その他に詳しく記した。事件は興道社ではなく、各地で個人もしくはグループが別々に、独自に惹き起こした――と観るべきである。
 当時、バストスには、養蚕農家が多数あり、蚕種製造所や製糸工場が幾つもあった。その農家の養蚕舎が数カ所、焼き討ちされた。しかし絶好の襲撃目標であった筈のブラタク製糸は被害を受けていない。理由は不明だが、ブラタク内部には、次の様な推定が存在する。
「戦時中、外部から困窮した邦人が多数バストスに流入した。これにブラタクが仕事を与え、助力した。それで襲撃者が目標から外したのではないか…」
 そして1945年8月、戦争が終わると、今度は、その勝敗をめぐって騒乱が起こった。邦人社会は、各地で二派に分裂、争い、遂には血を見ることになった。これは後に“勝ち組・負け組抗争”と呼ばれるようになる。しかし、襲撃参加者自身の「当時は勝ち組・負け組という言葉は無かった。
 この言葉は後に、日本からの旅行者が使い、それが広まった」という証言もある。
 両派には色々な呼称があったが、本稿では戦勝派、敗戦派という言葉を使用する。(1949年に刊行された香山六郎著『移民四十年史』では戦勝派・敗戦派と表現している。勝ち組・負け組という言葉は出てこない。ということは、当時、その言葉が存在しなかったためかもしれない)
 戦勝派は戦時中――日本の日本人と同様――抱いていた祖国必勝の信念を、終戦後も――情報不足が原因で――抱き続けた人々である。後者は、前者同様、戦時中は祖国の戦勝を確信していたが、終戦後、敗戦を認めた人々である。認めた時期は人によって異なる。
 さてバストスの場合は、どうであったろうか――。
 8月15日、この町で最初に日本の敗戦報をキャッチしたのは、バストス産組のラジオ受信機で、日本放送協会=後のNHK=の南米向け短波放送によってであった。
 一説によると、組合の職員が戦時中から密かに聞いて居って、前専務理事の溝部幾太に報告していたという。「密かに」というのは、短波の受信は治安当局から禁じられていたからである。
 溝部は戦前、同産組の専務として経営の采配を振っていた。が、ブラジル政府の対日国交断絶により、日本人は敵性国民とされたため、邦人理事は全員、その職を退き、後任にブラジル人を迎えた。しかし事情の判らぬ彼らに代わって、溝部は以後も事実上の専務職を務めていた。
 溝部は、敗戦報に驚いたが、直ぐそれを信じ、バストスの全邦人に知らせようとした。しかし組合内部には反対意見が多かった。その様なことをすれば、どんな混乱を招くか判らず、また組合がやるべき仕事ではないというのである。結局、溝部個人の名で知らせた。
 翌16日、朝から多くの人が組合に押しかけた。真偽を確かめるためである。騒然となった。
 ところが、同日午後には怪ニュースが伝わり始めた。「日本が勝った、敗戦報はウソだ」という内容であった。俄然、人々の表情に喜色が蘇り、溝部に反感を抱く者が現れ増加して行った。対して溝部と意見を同じくする者も少数ながら居た。両者の関係は、当初は意見の違いに過ぎなかったが、次第に対立、それは険悪化して行く。
(つづく)