こうして、彼らは別の道を歩むことになった。
正輝は父親と同年輩の移民のやさしい家族に迎えられた。名前を稲嶺盛一といい、妻は沖縄でよく使われるウマニーという愛称でよばれていた。彼女は正輝を自分の息子のようにあつかった。稲嶺盛一は新城村出身でも、具志頭郡出
身でもなかった。彼は沖縄の南、島尻からきていたが、方言はほとんど同じなので、二人はすぐつよい連帯感を持つようになった。
そればかりでなく、新城の若者が主張する非凡なアイデアが稲峰をひきつけた。正輝の話しは彼を楽しませ、彼の知性を刺激した。彼らのように反逆精神旺盛なものにとって、年がら年中農作業のことしか話さない家族の会話はばかばかしかった。
「雨が遅れたなどどうでもいい。昨日、棉の買取人が来なかった…。それがどうしたっていうんだ」と正輝は思っていた。それらを超越した話題こそが胸を充たすのだ。
稲峰盛一には息子が一人いた。その息子にブラジル名でジョゼー、日本名で盛八とつけていた。盛一はその息子にも新しく家族に加わった正輝からいろいろ学ばせようと考えた。後から生まれる子どもたちにも、その機会をあたえようと思っていた。
稲嶺家は正輝をくわえてグアタパラ耕地からタバチンガ郡に移転した。グアタパラから西へ8キロほどのところにあった。旧コーヒー地帯のドウラデンセ線の地域にはいり、グアタパラを含むアララクァーラ郡に位置していた。タバチンガに1917年から在住する日本人移民と同じく借地人として移り、その地域で行われている棉と米の二毛作をしようと考えたのだ。
一方、樽とウシはまったく別な道を選んで北に向かった。リベイロン・プレットからずっと離れたサンパウロとミナスジェライスの州境であるリオ・グランデ沿岸のイグァラパヴァにいった。そこは米の栽培に適し、住みついた移民が米で儲かっていることを耳にしていたからだ。1913年には50家族の一団が川を渡り、米の栽培をしていた。コーヒー園での契約をおえた旧移民がほとんどだった。
1919年から、すでに900家族の日本人移民が住んでいた。ちょうど、保久原家が農園との契約をおえた2年ばかり前のことだ。大半の家族はリオ・グランデの左側(サンパウロ州側)の土地に入植した。ちょうどミナス州コンキスタの反対側にあたる。コンキスタ側も米の栽培に適した低地に日本人が借地人として住みついていた。高い場所は地主がコーヒーの栽培地としていたのだ。鉄道もすでに開通しており、農産物の出荷にも有利だった。
樽とウシがイガラパヴァに移ってすぐ、長女のハツエが生まれた。それから2年後に長男が生まれ、ヨシアキと名付けられた。ヨシアキは五十年後、保久原家で、はじめて沖縄の土を踏むことになった。
正輝が稲嶺家に身をよせている間、樽夫婦はわりあい長い期間そこにとどまった。しかし、コーヒー園で働くより条件がいいとはいっても、イガラパヴァの生活もけっして楽ではなかった。苦境を乗り越えていけるほどの収益はあがらない。リオ・グランデの沿岸についてから三年後の1924年、そこを離れた。
正輝とのわずかな文通で、タバチンガについて情報を得、そちらに行くことにしたのだ。1925年7月18日、タバチンガで次男のヨシオが生まれた。
また、正輝の手紙によるわずかな情報で、沖縄人アサトもタバチンガに移ることを決めた。アサトはグアタパラ耕地の同胞の集まりで、三線を引き、みんなを楽しませたあの青年だ。すでに結婚していた。
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