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『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(21)

遂に一社だけに…

ブラタク製糸バストス工場

ブラタク製糸バストス工場

 1983年、この国の生糸の生産はブラタク製糸が52%を占め、日系進出組が47%、非日系1%となっていた。ブラタクは、進出組6社と競合、過半のシェアを確保していたのである。
 進出組は、ブラタク以外の生糸メーカーを廃業に追いやっていたが、実は、その経営は順調ではなかった。まず市田が華僑との合弁を試みて失敗した。他の5社も、当初の目算が大きく狂っていた。
 これは「ブラジルの経済の大混乱」「日本に於ける絹の需要減退、中国産生糸の流入、政府による生糸輸入の割当て制実施」が主たる原因だった。
 ために進出組は、次々とブラジルから撤退あるいは身売りという最期を迎えることになる。
 対してブラタクは、波に乗った観があった。
 1988年、進出組のグンサン(在ドアルチーナ)が操業継続を断念した時は、ブラタクが、これを買収した。500万ドルの言い値を100万㌦で買い取った。コロニアの企業が進出組を買収したのである。空前の出来事であった。
 1990年、バストスの人口の30~40%がブラタクの社員とその家族となっていた。
 1991年、同社の従業員はバストス1、507人、ロンドリーナ903人、ドアルチーナ429人、サンパウロ11人、計2850人で、過去最多であった。
 1993年、日本と欧州への輸出が急増、設備を大拡張した。
 昭栄、伊藤忠、ブラタクの合弁会社ショウエイ・ブラタクは1997年に事業活動を終えた。日本の昭栄本社が蚕糸業から手を引いたことによる。
 2005年、進出組の中で最後まで頑張っていたカネボーが身売りをした。親会社鐘紡の倒産のためである。買い手は日本の藤村製糸であった。
 2006年、大資本を投じて建設したコカマールの製糸工場が操業を停止した。(コカマール=パラナ州マリンガに本部を置く大型農協、非日系)。
 ブラジルの生糸メーカーは、ブラタクほか2社のみとなった。2社とは藤村(パラナ)、ベラルジン(在パウリスタ延長戦ガルサ、非日系)である。
 2008年、ベラルジンが操業を停止した。
 2010年、藤村が撤退した。
 そして残るはブラタク一社だけとなってしまった。
 しかも、この間、日本では生糸メーカーが総て消えていた。国内に養蚕家が居なくなったためである。加えて、生糸の需要……ということは絹の需要ということになるが、それが激減していた。
 以後は中国、フィリピン、ヴェトナム、インドネシア、タイ、インド…そしてブラジルが、生糸生産国となった。ヴェトナムでは、日本から進出した撚糸商が、ブラタクから生糸を輸入、絹にして日本へ輸出するようになった。
 こうした激変の中で、ブラタクは、その規模、製品の品質、信用で世界一になっていた。中国にはブラタク級の規模のメーカーは未だあるが、信用面で劣るという。それについては後で補筆する。

燻し銀の光

 天野の死から19年後の1998年、南米銀行は身売りをし、ブラ拓系の企業は、ブラタク製糸だけとなった。筆者は、天野が、その頃から燻し銀の光を放ち始めた様な気がする。
 付記すれば、ブラジルに於いて、戦前創立の日系企業で──戦中も閉鎖せず──今日まで存続しているのは、数社に過ぎず、地元資本はブラタク製糸のみである。
 なお、天野とともにブラタク製糸を築き上げた谷口は、晩年、バストスの文協会長を通算11年務め、1994年、92歳で永眠した。(つづく)