正輝は日本語独特の的確でぴったりあった感情や状態を表す繊細な表現を、しだいにしなくなりはじめていることがつらかった。形容詞の「暑い」と「寒い」の間をあらわす「暖かい」、「涼しい」。同じように「明るい」と「暗い」の間をあらわす「うす明るい」「うす暗い」。そんな言葉を使わなくなっていた。菓子や食べ物につかう「甘みがある」「味がうすい」ということもいわなくなった。
正輝にはそれが心の荒廃を示すバロメーターに思えた。
「繊細な言葉を忘れてしまうことは精神的生き方の衰弱化にほかならない。そうやって言語が繊細さを失い、粗雑になっていく」
その傾向は時間が解決してくれるどころか、ますます、ひどくなっていった。
わずかばかりのひまに、そんな時間はほんの少しだったが、正輝は石油ランプのもとで、読書に励んだ。仕事に役立つわけではなかったが、生きるための視野を広める心の糧となる。自分の人格を育てるのに読書が大いに役立つはずだ。
樽はすでに4人の子持ち(1927年にタダオがうまれ)になっていた。タバチンガでは棉の収量は多かったのだが、働き手が少ない家族には不向きな仕事だと考えた。重労働の割には手にする金が少なかったから、割りに合わない仕事だと思い、牛に「ここにとどまってもどうしようもない」とこぼした。
そして、1928年ふたたび移動した。タバチンガを通る鉄道の出発駅があるサンカルロス近くの菜園を友人が管理しているはなしを聞き、そこに菜園用の借地をみつけることができたのだ。大きな町の近郊にすめば生産する青物や蔬菜を自ら直接販売できて、都合がいいと思ったのだ。なにより、植え付けから収穫までの期間が棉よりずっと短く、年に一度の作物より蔬菜は金を手にする期間がずっと早い。樽は「今の仕事より歩がいい」とできるだけ早く移ろうと牛をうながし、タバチンガから移っていった。
こうしてサンカルロスに6年間とどまった。樽は日本に帰る望みがうすれていくなかでも、故郷から遠いブラジルに金儲けができる可能性のある土地があるという思いを捨て去ることはできなかった。それゆえに、まるで、流浪の民のように、決してなじめないこの国をあちこちさすらい歩くのだった。
第4章 房子
ブラジルへの移民送出はたいした成果をあげなかったのだが、一方には日本政府の移民をブラジルに送らなければならない事情もあった。
まず、労働力の過剰による社会情勢の悪化がある。日本経済は世界経済の変動になやまされていた。人口増加をつづける日本人の主食である米価の高騰があり、また勢いのついた繊維工業に不可欠な棉の価格がそのあおりを受けていた。
1924年、アメリカ政府は日本移民への門戸を完全に閉ざし、北米国籍をもつ者だけの入国を許可した。この処置はちょうど日本が最悪状態にあったときと重なっている。1923年は、東京をおそった関東大震災の被害をもろにうけ、国の工業は停止状態、失業者は増える一方で、多くの人間が住む家さえうしなっていた時期である。