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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(59)

 沖縄の状況も似たようなものだった。1920年前半、つまり、大正時代(1912─1926)の末期に、砂糖の生産量は1888年に比較し10倍になっていたが、価格は大きく低下し、その結果、その後、沖縄の海外貿易は赤字をつづけ1924年の340万円が、1927年には810万円の赤字に膨らんでいた。わずか3年間で二倍以上になったのだ。1920年ごろからはじまった「ソテツ地獄」もずっと存在し、沖縄人はどんどん移住しなければならなかった。
 1925年、そして1928年に、弱体化した沖縄経済の救済案を可決した国会は、東京はもとよりその他の県にも、沖縄の広報宣伝事務所を開設した。ところがこの企画が実施されようとしたやさき、1929年のアメリカ不況の波がやってきた。日本人の大多数はそのときすでに限界状況に達していたのだ。
 その日本が苦境のどん底にあるとき、サンパウロ州政府は移民の渡航費の援助を完全に打ち切ってしまった。この援助金は移民をコーヒー園に定着させることを目的にしていたものだったが、1925年に打ち切られてしまったのだ。
 もっとも、その可能性について何年か前から推察していた日本政府は、1923年から関係者間で移民奨励策を検討し、1925年には政府は補助金支給を公式に発表した。1921年から内務省は社会局を設け、職の安定、社会福祉事業の促進、海外に向けての移民の奨励などをあげた。1925年に移民事業が日本政府の国策になってからは、内務省が移民に補助金を支給することになったのである。
 そして、社会的経済的問題が最大の要素ではあったが、この政策には国土拡張、いや、そこまでいかなくとも、海外に日本の影響を知らしめる政治的目的が隠されていたことは確かであろう。
「農業雇用者、土地所有農業者の国策としての本格的移民は1922年にはじまったが、1929年の拓務省設立により戦前の移民対策は国土拡大と農村貧困化問題を解決するためだった」
 財政的には大きな影響があった。1920年から1922年まで、政府は移住者一人につき10円の補助金を支給した。移民政策に力をいれはじめた1923年にには、以前の約2倍の130円に上がった。1925年政策が軌道にのりだしたときには167円の支給があり、不況にあえぐ農民にとって、政府の補助金で移住地に着く前に渡航費が支給されるので、移住は農民最大の関心事となった。
 正輝はこのような状況の変化を知るはずもなかったのだが、日本国内の多くの農民はしだいに政府の援助を知るようになり、ブラジルへの移住者が急増加した。
 1920年から1924年間の移民数は1660人だったが、政府の補助金が支給されだした1925年からは急増し、6330人、1926年には8407人、1927年には9034人、1928年には1万1162人、1929年には1万6648人、世界恐慌がはじまった1929年には多少足ぶみしたものの、1930年には1万4076人の移民が渡伯した。
 海外移住者があまりに増えたので、10年ほど以前に保久原の家族が乗船前に宿泊した神戸移民収容所がてぜまで収容困難となっていた。