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「リオのカーニバル」のパレードの歴史はどのくらい?

リオのデスフィーレ(Tania Rego/Agenica Brasil)

リオのデスフィーレ(Tania Rego/Agenica Brasil)

 もう、今日が終わりそうなあたりからサンパウロ市、そして全国が注目のリオで3日の23時30分からカーニバルのデスフィーレ(パレード)がはじまる。ブラジル民にとっては、それに興味があろうとなかろうと、もはや無意識のうちに刷り込まれた日常、とでもいうべき、不可欠な存在でもある▼エスコーラ・デ・サンバが優勝を競い合うこのデスフィーレだが、これがリオで正式に「エスコーラ対抗の競技」と化した歴史そのものも古く、1932年。日本の元号で言うと「昭和7年」までさかのぼる。日本人の感覚で言うなら「戦前から存在する」ものだ▼そう言われても、実感を持ってピンと来るのは、その年に近い世代のかなりの年配の方のみだと思われるので、他の有名な物事との比較で、デスフィーレの歴史の長さを語っていくことにしよう▼日本の「競技」で見てみると、高校野球の前身にあたる「全国中等学校野球大会」の1915年にはかなわないが、全日本職業野球連盟による最初のリーグ戦がはじまったのは1936年なので、プロ野球の巨人や阪神よりも長い歴史を持つことになる▼ブラジルの国技とでも言うべきサッカーと比べると、国内のリーグ(当時は州別でこの習慣が60年代まで継続)はすでにはじまってはいたものの、ブラジルが第1回から参加しているW杯のはじまりは1930年。この年には、リオでも「競技」という形ではなかったものの、複数のエスコーラでもパレードははじまっていたから、「大体同じような長さの歴史」ということができる。同時に「サッカーとカーニバルのブラジル」のイメージの起源も、まさにこの時期と言えるかもしれない▼また、文化で見てみると、つい先日授賞式が終わって世界的な話題となったばかりのアカデミー賞の第1回は1928年。これもリオのデスフィーレよりほんの少し長いくらいで、ほぼ同等の長さと言えるだろう▼このハリウッドの最初の全盛期と、リオのカーニバルがデスフィーレで盛り上がり始めたのがほぼ同じ時期だったのが利いたのだろうか。1940年代前半には、リオで評判の女優、歌手だったカルメン・ミランダがハリウッドに進出し大成功。トレードマークの「フルーツ・ハット」で南米女性の象徴にもなった。そのカルメンのブームとほぼ1943年にはディズニー・アニメ「ラテン・アメリカの旅」が製作され、その挿入曲「ブラジル」はアメリカのジャズの有名曲となり、今日まで知られている▼政治で言うなら、ブラジル的に言えば、ジェツリオ・ヴァルガスが1930年のクーデターで、今日でも誰にも破られていない長期政権をはじめて間もない頃。その一方、ドイツでは、アドルフ・ヒトラーのナチスが台頭が急速化し、まさに1932年の国会選挙で第一党に躍進。また、これと同じ年に日本では5・15事件が起きて犬養毅首相が暗殺されたことで、暗い世相に入りはじめる頃だった▼このように語り出すととりとめもなくなってしまうものだが、つまりデスフィーレはそれくらいの由緒ある歴史を抱えたものなのだ。そして第1回目の優勝エスコーラのマンゲーラに同2位のウニドス・ダ・チジュッカ、翌33年から参加のサルゲイロ、35年から参加のポルテーラといった古豪エスコーラが今日も例年のように優勝争いを繰り広げ「伝統の強さ」を見せ付けるのもデスフィーレの味わいでもある。(陽)