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『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=(27)= 外山 脩

創造心

 筆者は水本豊氏に、二度会った。2012年バストスで、2013年サンパウロで。

 氏は、それより30数年前、事業の本部も住まいもサンパウロに移していた。バストスには、仕事の関係で、時々行っていた。以下は、二度に渡って聞いた氏の回想談の一部(要旨)である。

 「バストスの養鶏は、私が子供の頃は何処でも、飼料は子供が手や小型のスコップでミーリョの粉、ピーナッツの糟、レイチ、アルファファを混ぜて作り、鶏舎で配っていた。そして卵を、竹で編んだ籠で集め、汚れを布で拭いたりナイフで削ったりして、カロッサで組合の集荷場に運んでいた。

 その内、組合が卵を入れる箱などの資材を配給、カミニョンで集荷してくれるようになった。次にミーリョを粉にする手動式のマキナが入った。さらに電気で動かすマキナが…。そして完成品の飼料を組合が生産・配給するようになった。

 鶏舎は、最初は平飼いだった。1957年(アリアンサ移住地の)弓場農場がバターリャ式を持ち込んだ。それをさらに改良したのがケージ式で、これで大量に飼育できる様になった。

 バンデイランテ産組が、1950年代、種鶏場をつくった。そこで雛を生産したが、これが死んだ(死亡率が高かった)。アメリカからハイライン種が入った。これは死ななかった(死亡率が低かった)。自分は当時は死んだ鶏を埋める仕事が担当だった。ハイラインに切り換えると、仕事がなくなった。これ幸いと、息をついでいると、親父がやってきて『なんだ、死んではいないでないか』と…(笑)」

 1960年、グランジャ水本は属していたバンデイランテ産組を離れて独立した。

 その後、豊氏はピラシカーバ農大に進んだ。休暇にはバストスに戻り、グランジャの仕事を手伝った。卒業後1年間、米国の養鶏業界へ実習に行った。それを終えて帰ると、父親からグランジャを引き継いだ。

 1971年のことで26歳だった。飼育数は10万羽になっていて、当時としては大きかった。

 引き継ぐと直ぐ、前記のエシャポランへ2万羽用の鶏舎を建てた。ただし幾つかの鶏舎を少しずつ離れた処へつくった。無論、病気の伝染防止のためである。

 高校時代、ある先生が創造心の大切さを教えてくれた。それを思い出して、そうしたという。

 エシャポランで成功した豊氏は、以後、同じ方法で各地に鶏舎を作った。米国で実習した新しい技術も導入した。産卵率はグーンと上がった。高収益を上げた。建築業へ転じた父親のために、その資金の全てを出してやったほどだった。

 弟二人が参加した。1976年、バストスからサンパウロへ本部を移し、個人経営から会社組織にし、名称もグランジャ水本から水本アリメントスへ改めた。

 

何が起こったのか

 

 1985年、飼育数は計350万羽となり、ブラジル一となった。1100人の従業員が働いていた。豊氏は未だ40歳だった。このまま行けば、日系社会史上、屈指の立志伝中の人物となったであろう。ところが水本アリメントスの経営は、その後狂い始め、2000年頃から閉鎖してしまったのである。

 一体、何が起こったのか。(つづく)