「手塚治虫と握手したら、とても柔らかい、温かい手でした」―手塚治虫が1984年9月に来伯した際、サンパウロ美術館(MASP)で特別イベントが開催された。15歳だった管波梨枝エリザさんは、“漫画の神様 ”を一目見るためにわざわざ、280キロ離れたアララクアラから参加した。
「母は12歳で移住したんですが、その頃からの『リボンの騎士』の大ファン。私もファンとして育ちました。手塚治虫は私が日本語をしゃべり、遠いところからきたと感心していました」と思いだす。
その後、文協で開催されたアブラデミ主催の漫画講座で手塚治虫が講演、来場者にキャラクター入りのサインをした。「すごく緊張しながら列に並んだ。私の前の人が、私が欲しかったリボンの騎士の絵をかいてもらっているのを見て、絶望しました。同じ絵を続けて書いてはくれないだろうと。でも彼は私のお願いを聞いてくれ、再び描いてくれました。しかも、とっておきの素晴らしいサファイア(主人公)です」と35年前のことを興奮冷めやらない様子で語った。
89年2月に手塚治虫が亡くなった際、管波さんは「悲しくて悲しくて、泣き続けた」という。その年の9月に20日間、日本の文部省の招聘事業で初めて訪日し、強いルーツの絆を再確認した。
手塚治虫の思い出を胸に自分でもイラストを勉強して描くようになり、ジョルナル・デ・アララクアラに毎日漫画を載せたり、あちこちで漫画講座を開いて、日本文化を広めるようになった。
「アブラデミのおかげで手塚治虫に会えました。だから今日はパラナからやってきました。母からは『手塚治虫のサインを大事にしなさい』と何度も言われました。母は今でもリボンの騎士の大ファンですよ」とほほ笑んだ。
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管波梨枝エリザさんは手塚治虫が描く様子をじっと見ていた。「最初に髪、次に目を描きました。今でもはっきりと覚えています。本当に神業でした。普通の紙の上に、生き生きとしたキャラクターが刻み込まれました」。その時、管波さんの母も手塚の真横に陣取り、20人余りにサインする間、一枚一枚じっくりと見たという。「漫画の神様にあった感動のあまり、アララクアラに帰るバスでそのサインを抱きしめ続け、自宅に帰ると緊張が解けて急に調子が悪くなり入院したくらい」と笑う。サインの実物は額に入れられ、家宝として自宅に飾られているという。