ブラジルに親類がもう一軒増えたことは、房子にとって、ここで生きる苦労をやわらげてくれるものだった。自分より何年か前にきた人たちと同じように、がんばろうという気持ちが強くなる。最近の移民は初期の移民よりずっと有利な立場にあるとも感じていた。初期の移民は周囲から孤立し、見捨てられたと思う人が多かったに違いない。それ以降、大勢の日本人移民がやってきて多くの部落が生まれ、そのなかで、連帯と友好的な関係が育まれていった。
日本料理の特殊な材料にしても、以前はサンパウロ市の裕福な者にしか手に入られなかったのだ。けれども、日本人が集中している奥地でも売られるようになっていた。醤油、味噌、饅頭につかう小豆、餅などが家庭の台所に常にある。たまには、昆布が食卓を賑わすこともあったが、これは新来移民がもってくるのだから、ひんぱんには手に入らなかった。
そのようなとき、姪が叔母にもってきたのはまさに大束の昆布だった。姪にはじめのうちは苦労するだろうと房子は諭した。住みなれない家、慣れない食べ物、つうじない言葉。けれども、馴化していくのが人間というものなのだ、と安心させた。
マサユキが二歳になる前に、房子は第2子の出産を迎えた。1936年4月24日のことだった。正輝ははじめての出産のときの経験を生かした。今回は自主的にお産の日のためにいろいろ準備した。あわてることなく、その場、その場を手ぎわよく処理した。今度も男子だった。日本人農家では労働の担い手となる男子の誕生を喜ぶものだ。はじめアキオ(章多)と命名したが、生まれてから何日か過ぎてから、アキミツとよばれるようになった。命名してから、そのあと別の呼び名をもちいるというおかしな習慣が沖縄にはあった。
さらに、タバチンガの登記所の出生証明書発行の責任者は日本人なのにHがないのはおかしいと考え、ポルトガル語では発音しないHをアキオの前に付け加えた。だから、AKIOと命名されたが、HAKIOと登録された。そのあとAKIMITUと呼ばれるようになったのだ。
アキミツが生まれて少し経った1936年の半ば過ぎ、マサユキの体におかしな症状が現れた。その日はひどい症状だが、次の日はケロリとしているのだ。間欠的に激しい症状がおそってくる。
そんなある日、食欲がおとろえ、気持ちが悪くて吐いてしまった。手を頭にあてると微熱があって、痛そうにした。「風邪をひいた」と房子は判断し、一晩ゆっくり寝かせ、次の日も気をつければすぐ治ると思った。
翌日、何の症状も現れなかった。
「やっぱり風邪だった」と判断にまちがいなかったと安心した。
房子はマサユキが歩き始めてからは盛一の長男、セイハチに幼児をあずけて仕事に行っていた。彼は13歳になり、家事をうけもち、家族の夕飯の準備をするのだ。いつものように、マサユキを盛一にあずけ、アキミツをおんぶして、正輝について野良に出かけた。戻るのは日が暮れてからだが、何事も起こるはずがない。と考えていた。
たしかに、留守中は何も起こらなかった。セイハチがいうには正幸はよく食べたとのことだった。「やっぱり、風邪だったのだわ」と自分に言い聞かせ安心した。
ところが、真夜中に症状が現れた。子どもが歯をガチガチさせているので房子は飛び起きた。マサユキはでベッドで日本語で「寒い、寒い」といいながら震えていた。
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