5月1日、皇太子徳仁親王殿下は第126代天皇にご即位され、これを以って新元号「令和」に改元となる。同日、宮中三殿での儀式に臨まれて皇祖皇宗にご即位をご報告され、10月22日の即位礼正殿の儀にて、国内外に大々的に皇位継承を宣明される。
皇太子殿下は、浩宮時代の82年に初の外国公式訪問先としてご来伯以来、08年にはブラジル日本移民百周年、18年には私的ご旅行として首都で開催された「第8回世界の水フォーラム」にご臨席されるなど3度に亘りご来伯され、当地とも縁が深い。
「令和」の御世を迎えるに際し、これまでの殿下のご事跡を紹介するともに新時代における天皇像を探ってみたい。
▼陛下のお手許で帝王学を学ばれ
戦後復興から高度経済成長の途上にあった昭和34年、天皇皇后両陛下(当時、皇太子同妃両殿下)の世紀のご成婚が国を挙げての祝賀ムードの中で催された。その熱気が冷めやらぬなか、翌35年、徳仁(なるひと)親王殿下が戦後初の内廷皇族の親王としてお生まれになった。
天皇皇后両陛下は、それまでの慣習とは異なり、選任の教育係りを置かずに、浩宮徳仁(ひろのみやなるひと)親王、礼宮文仁(あきしののみやふみひと)親王、紀宮清子(のりのみやさやこ)内親王をお育てになられた。家庭のなかでお育ちになった天皇としては史上初めてとなる。
殿下は、後年になり、以下のように両陛下への感謝を語られている。
《両陛下のお手許で温かい家庭において慈しみを受けながらお育ていただき、また、音楽やスポーツの楽しみを教えていただいたり、留学といった得難い経験をさせていただいたりしたことが、自分にとっても大きな糧となっていることに深く感謝をしております(平成31年、お誕生日記者会見にて)》
このように両陛下のなさりようをお近くで拝して育ってこられた皇太子殿下は、学習院高等科在学時から、歴代天皇の御事跡や古事記、日本書紀、万葉集など幅広く「ご進講」を受け、帝王学を学んでこられた。
殿下は《天皇の歴史というものを、その事実というか、そういったものを知ることによって、自分自身の中に、皇族はどうあるべきかということが、次第に形作られてくるのではないかと期待しているわけです(昭和52年、御誕生日前記者会見)》と話されており、歴代天皇の御事跡を辿るなかで、ご自身のお振舞いを見つめてこられたことが拝察される。
殿下は、昭和の時代より、両陛下のご公務にご一緒され、また、昭和62年には、病床に臥されていた昭和天皇の国事行為臨時代行を務められた。将来のご即位に向けて、着実に準備を進めてこられたのだ。
▼初来伯で「ヒロ・フィーバ」!
昭和57(1982)年、浩宮徳仁親王殿下は初の海外公式訪問先としてブラジルをご訪問され、12日間の滞在で11都市を歴訪されるという厳しい日程をこなされた。当時、御年22歳であり、お若く凛とされた殿下にコロニアは熱狂した。
弊紙前身のパウリスタ新聞では《行く先々でヒロ・フィーバ 若さと笑顔で人々を魅了》と銘打って、当時の様子を伝えている。ご公務の合間を縫ってはテニスのサーブ練習にひと汗流され、若い日系グループとビオラを協演されるなど溌剌と行動されたという。
一方で、プライア・モーレ港に隣接するツバロン製鉄所では《日本中世史の海上交通論をご専攻なされているだけに、プライア・モーレ港に対しては特に興味を示され、その立地条件、ツバロン製鉄所との関係など、ご専門の立場から突っ込んだご質問をされ、関係者をびっくりさせていた》とある。
行く先々で人々を魅了し、爽やかさを残して帰国の途に着かれた殿下は、初来伯を終えて以下のようにご印象を文書で回答されている。
《初期の移民生活のことは読んだり聞いたりしていたが、実際の手作りの道具類や資料を目のあたりにして、当時の苦労はやはり想像を絶するものと感じました。(中略)一言でいうことは難しいことですが、二、三世は当然のことながらブラジル人として育っているということを感じ、いっぽうで一世の伝統と気骨をそのまま受け継いだ若い人々も多いという印象です》
▼ご婚約、そして愛子内親王ご誕生へ
立太子の礼を迎えられた皇太子殿下は、平成5(1993)年、当時の外務省事務次官であった小和田恆氏の娘で外務省に勤務していた小和田雅子さんとご婚約された。一度はお妃候補から外れるも、殿下の誠実な求婚を受けて、ついには雅子さんも心を動かされて受諾された。
皇太子殿下は《私自身本当にこの度の雅子さんのことに関しては、本当に全力投球でと申しますか、一生かけて、本当に力を入れていたことでもありますし(中略)本当に側にいてあげて、そして相談にのって、そして全力で守ってあげるということが、私としては絶対に必要ではないかというふうに思います(平成5年御誕生日記者会見)》と語られている。
その後、平成11年にご懐妊の兆しが見られたものの流産。13年にご長女となる敬宮愛子内親王殿下がご誕生された。
皇太子殿下は《地球上に人類が誕生してからこの方、絶えることもなく受け継がれているこの命の営みの流れの中に、今私たちが入ったということ、そういうことに新たな感動を覚えました》と父君となられた喜びを語られた。
雅子妃殿下も《初めて私の胸元に連れてこられる生まれたての子供の姿を見て、本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました。(中略)生命の誕生、初めておなかの中に小さな生命が宿って、育まれて、そして時が満ちると持てるだけの力を持って誕生してくる、そして、外の世界での営みを始めるということは、なんて神秘的で素晴らしいことなのかということを実感いたしました(平成14年、愛子内親王殿下ご誕生記者会見)》と涙ぐまれた。
▼適応障害を家族愛で乗り越えて
第一子を授かって子育てにご奮闘される一方で、皇太子妃としての特別のお立場やお世継ぎ問題のプレッシャーが重くのしかかり、平成15(2003)年末、雅子妃殿下は帯状疱疹を発症してご入院。翌年には、適応障害を患われた。
これを受けて《外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を皇族として、大変な、重要な役目と思いながらも、外国訪問をなかなか許されなかったことに大変苦悩しておりました(中略)それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です(平成16年外遊前記者会見)》と話された皇太子殿下の『人格否定宣言』は波紋も呼んだ。
長期療養に入られた雅子妃殿下は、地方行啓など外出を伴うご公務ご出席が叶わなくなる一方で、通学に不安を抱えられた愛子内親王殿下への付き添いが長期化したこと等に対し、メディアからは言われなき批判にも晒された。だが、皇太子殿下はそのお言葉にもあった通り、温かく妃殿下を見守り全力で支えられ、ご家庭を大切に守り抜いてこられた。
雅子妃殿下は心身の不調を抱えながらも、こうした安らぎあるご家庭のなかで徐々に快復の兆しが見えはじめ、様々な工夫をしながら出来る限りの活動をするため努力を続けてこられた。平成25(2013)年には、11年振りとなる外国公式訪問となるオランダ訪問に皇太子殿下と揃ってご出席され、近年では地方ご訪問も増えており、着実に快復に向かっていると言える。
妃殿下は《この先の日々に思いを馳せますと、私がどれ程のお役に立てますのか心許ない気持ちも致しますが、これまで両陛下のなさりようをお側で拝見させていただくことができました幸せを心の糧としながら、これからも両陛下のお導きを仰ぎつつ、少しでも皇太子殿下のお力になれますよう、そして国民の幸せのために力を尽くしていくことができますよう、研鑽を積みながら努めてまいりたいと思っております(平成30年御誕生日に際し)》と新皇后となられるご覚悟を語られている。
まだ快復途上にある妃殿下を温かく見守りつつ、コロニアにとっては新天皇皇后両陛下としていつかブラジルの地をともに訪ねてくださることを期待したいばかりだ。
▼新天皇への静かなるご覚悟
両陛下のお手許でたくさんの愛情をうけて育ってこられた皇太子殿下は、妃殿下とのご婚約から現在に至るまで家族愛を貫いてこられた。
《私は家族を思うことと、それから国や社会に尽くすということ、これは両立することだと思います(平成14年、御誕生日記者会見)》とする一方で、《いずれにしても国民の幸福を一番誰よりも先に、自分たちのことよりも先に願って、国民の幸福を祈りながら仕事をするというこれが皇族の一番大切なことではないかというふうに思っています(平成16年、御誕生日記者会見)》とのお言葉からは、いかに時代が変遷しようとも「私」より「公」を大事になされる歴代天皇の伝統をしっかりと継承されていることが拝察される。
平成最後の御誕生日記者会見では、《引き続き自己研鑽に努めながら、過去の天皇のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がなさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います(平成31年御誕生日記者会見)》と語られている。
また、今年の歌会始めでは、以下のような御歌をお詠みになっている。
雲間よりさしたる光に導かれわれ登りゆく金峰の峰に
当時高校生でいらっしゃった殿下が、山梨県と長野県の県境にある金峰山に登られた際のことを詠まれた御歌だ。当日は、曇りで時々日がさす天候であったが、山頂付近で差してくる光に導かれるように歩みを進められたという。
皇太子殿下は御年59歳で、歴代天皇のなかでは2番目に最年長でのご即位と見られ、皇太子として30年間に亘って様々なご経験を積まれてきている。小さい時から「道」にご関心を持たれてきた殿下らしく、「令和」という新たな時代への道のりをまさに登ってゆくという、静かなる、そして、強いご覚悟が行間から滲んできそうだ。
▼水問題に見る新時代の天皇像
新しい時代に則した公務として、皇太子殿下が長年に亘って携わってこられたのが「水」問題だ。学習院大学ご在学時に交通・流通史を専攻し、英国オックスフォード大学留学時にはテムズ川の水運史を研究されてこられた。
こうして「水」問題への理解を深められるなかで、視野や活動の幅を広げられる大きなきっかけとなったのが、平成15年に京都にて開催された「第3回世界水フォーラム」であった。
水を巡る問題が社会的弱者や地球環境、自然災害など多方面に渡ることに驚き、理解を深めたいと考えられるようになったのだ。以来、昨年の首都ブラジリアで開催された「第8回世界水フォーラム」まで4回ご臨席され、基調講演を行われた。
昨年の基調講演では「水による繁栄、平和、幸福」をテーマにご講演された。慢性的な水不足で争いが絶えなかった安城ガ原に明治用水が導入されたことで農業地帯に発展した例等を引き合いに、日本の過去の歴史的教訓を紐解かれて「水」問題に纏わる世界的な連携を呼びかけられた。
日本の国土は急峻であり、大雨が降れば洪水となり、雨が降らなければ日照りになりやすく、古より「水」問題に悩まされてきた。それゆえ古代の歴代天皇は池や堤をつくる詔を出され、その国民の安寧を祈る聖なる祈りが、強靭な国土作りにも繋がってきたのだ。平成でも、東日本大震災による津波被害や異常気象による集中豪雨など、日本は数々の「水」問題に直面している。
殿下は、「水」問題への取組みの意義について、以下のように語られている。
《私が長年携わってきました「水」問題についても、そのことを切り口に、豊かさや防災など、国民生活の安定と発展について考えを巡らせることもできると思います。日本の変化に富む豊かな国土は、同時に、自然災害、例えば台風や豪雨、津波などの影響を受けやすいことから、「水」問題への取組で得られた知見も、これからの務めの中で、国民生活の安定と発展を願い、また、防災・減災の重要性を考えていく上で、大切にいかしていきたいと思います(平成31年御誕生日記者会見)》
天皇皇后両陛下は、皇室の重要な公務の一つとして、国際親善で多くの実りを上げてこられた。そのなさりようから学ばれ、30カ国以上を親善訪問されてきた皇太子殿下が、新時代の公務の一つとして確立されたのが「水」問題だ。
歴代天皇の御事跡から歴史的洞察に基づいて、平和のメッセージを世界に向けて積極的に発信された殿下のお姿は、まさに世界平和を希求する日本国の新時代の天皇像に相応しいものと言える。
▼「令和」の御世はいかに
4月1日、日本政府は平成に代わる新元号を「令和」と発表し、5月1日の新天皇即位とともにいよいよ改元となる。新元号は、万葉集第5巻・梅花の歌三十二首の序文《時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ・・・》を典拠として、『令(よい)』と『和(なごやか)』の漢字2字で構成される。
序文を略説すると、大宰府の大伴旅人の邸宅で梅の花を愛でる宴会が開かれた。梅の花の華やかさのみならず、それを取り巻く周囲の景色も美しく大変に居心地良いものだった。一座の人々は満ち足りて膝を近づけ酒を交わすなど和やかな雰囲気のなか「歌を詠まずにどうして心を表現できるだろうか」として四群に分かれて八首ずつ順に梅の歌を詠んだのである。
安倍首相は《厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、令和に決定致しました》と説明している。
昭和天皇のご崩御により国中が悲しみに沈むなか、始まりを告げた平成。『史記』の五帝本紀の「内平かに外成る」及び『書経』の大禹謨の「地平かに天成る」という文言を出典とし、「国の内外にも天地にも平和が達成される」ことを願って命名された。ご退位を控えるなか、天皇陛下は《平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています(平成30年御誕生日に対して)》と話されている。
平成で築かれた平和と繁栄の基盤の上に、令和の御世に新たな日本文化が興隆して栄え、希望に満ちた時代となることを切に祈りたい。(大澤航平記者)