ロスの全米日系人博物館で「大戦期、強制収容所に入れられた一世の7割が忠誠心調査でNoNoだった」というガイドの話を聞き、これは「アメリカ版の踏絵だ」と痛感した。
1943年初頭にアメリカ政府の戦時転居当局が実施した、17歳以上の強制収容者に対するアメリカへの忠誠心を調査した際、次の二つの質問事項にNoという答えが集中した件だ。
《質問27》「あなたは命令を受けたら、いかなる地域であれ合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?」、そして《質問28》「あなたは合衆国に忠誠を誓い、国内外におけるいかなる攻撃に対しても合衆国を忠実に守り、かつ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を誓って否定しますか?」
つまり「祖国と天皇陛下への忠誠心を捨てるかどうか」という移民の心を引き裂くような質問をしている。
日本と直接に対戦したアメリカでは、ブラジルのような勝ち負け事件は起きようがなかった。だが合衆国では大戦中の時点で、日本戦勝派とそうでない人とを分ける、このような“踏絵”がすでに行われていた。
NoNoと答えた収容者は、カリフォルニア州北部のツール・レイク収容所に集められた。そこでは1943年2月19日、忠誠登録に反感を持った二世の若者35人が「徴兵局に登録する意思は全く無い。しかし、日本への送還には何時でも署名する」との抗議文を手渡すためにデモ行進を行った。
これに対して管理局側は見せしめとして、収容所の近くにいた約200人の陸軍一個中隊を派遣し、21日夜に一斉検挙した。このような対立から、同収容所には二世が3千人もいたが、徴兵に応じたのはわずか59人。ウィキペディア「日系人の強制収容」には《息子が徴兵に応じた家族は、他の収容者から邪険に扱われ、食堂内に「イヌの席」と書いた札を立て、その席で食事をすることを強要された》とある。
「忠誠心調査」の話を聞きながら、2010年12月4日にブラジル民謡協会の故・桜庭喜太郎会長から、父・喜一郎さんがDOPSで踏絵をさせられた体験談を聞いたことを思い出した。
移民が祖国を愛する事は罪なのか?
桜庭家は秋田県から1933年に渡伯、まずはカフェランジャのコーヒー耕地で2年間、次にソロカバナ線マルチノポリスの日本人植民地フレバノガで6年間を過ごした。日本人が45家族おり、喜太郎さんはその轟青年会の会長までやったという。
青年会では大和魂、忠孝、日本精神などをテーマに弁論大会をやった。日本精神を失わないように日本語教育に力を入れ、日本語学校もあった。付近の青年会を集めて報恩青年連盟も作り、その会計も務めた。
桜庭家は1940年にモジ市のコクエラ植民地に移って野菜つくりをしていた。今年入植100周年を迎える伝統ある場所。終戦当時、モジは勝ち負けのヒドイ事件は起きなかったところだ。
「野村忠三郎殺害事件(1946年4月1日、勝ち負け抗争2件目、サンパウロ市で最初の殺害事件)のすぐあとの5月、娘がサンパウロにおったのでオヤジは会いに行って、モジに帰る前にリベルダーデ広場の日本食堂でメシを食っていた。突然、刑事が踏み込んで、そこにいた日本人に『日本は勝ったか、負けたか』と質問したそうだ。オヤジは『負けるわけがない!』と言ってしょっ引かれて、オールデン・ポリチカ(DOPS=社会政治警察)に入れられた」。
連れてかれたオールデン・ポリチカには「オヤジが言うには、何百人も拘留されていた。そこでも取り調べがあって、再び『日本は勝ったか、負けたか』と聞いてきたので、オヤジは『どうして日本が負けるものか』と頑固に言い続けた。ある日の取り調べの時、刑事はご真影をだして、『これを踏め。踏んだら出してやる』っていうので、オヤジはカッとなって刑事を殴ってしまった。オヤジはその時のことを『バカ野郎だ。天皇陛下を踏むことなんて、日本国民にできるはずがない』って言っていました」と、その時の父の気持ちを想像するかのように、しばらく中空を見つめた。
父・喜一郎さんは1895年生まれ。日露戦争で日本が勝利した時は、多感な10歳。「明治の日本人」としての精神を持って育った。そんな父が51歳にして「踏絵」という精神的な拷問に際してカッとなって、刑事を殴ってしまった。
その結果、さらに極悪犯が集められたタウバテ刑務所に送られ、そこの“石牢”に30日間もぶち込まれた。
「移民が祖国を愛する事は罪なのか?」――そんな重い問いかけが、米国の「忠誠心調査」と、ブラジルDOPSの「踏絵」には共通している。
ブラジル移民に課せられた踏絵という拷問
「終戦の時、わしは23歳だった。少年時代から軍国主義の中で育って、戦争中でも皆、日本が大東亜戦争に勝利して、大東亜共栄圏にみんな移動させるって本当に信じていた。でもオヤジは臣道聯盟(勝ち組最大の組織)にも入らず、周りに何かを働きかけることをしていた訳でもない。ただ自分で信じていただけ。ワシだってそう。ある時、畑仕事をしていた時、知り合いがわざわざ『日本が勝った』と知らせに来た。その時は思わず、バンザーイって畑で鍬を放り投げたら、鍬が折れてしまった。ワシはべつに勝ち組として行動はしなかったが、心の中ではそう信じていた」と振りかえる。
タウバテの石牢に移された父を助けるために、家族はコクエラのコチア産業組合単協に相談しに行き、「オヤジを牢屋から出すために手伝ってくれ」とお願いに行った。組合幹部は話を聞き、同情してくれ、市長を紹介した。当時の市長は産業組合の元理事長だった。その筋から「喜一郎は頑固者だが、悪者ではない。こいつはモジ出身だからモジのカデイア(刑務所)に移してくれ」との要請がDOPSに届き、モジに移された。
そこでも喜一郎さんは警察から「なんでもいいから、負けたことを認める書類にサインしろ。そしたら出してやる」と言われ、家族からも「オヤジ、何でもいいからサインしてくれ」と懇願され泣く泣くサインした。
「オヤジがカデイア(牢屋)に入っている間に親戚に次女が生まれたんだ。で、オヤジが負けたといわんものだから、日本国民であるためにこうなったという意味で『民子』と名付けた。そんな由来なんだ」と語っていた。
「それから、オヤジは勝ったとも負けたとも言わなくなり、うやむやになった…」。その話を聞き、誰が喜一郎さんを責められようかと考え込んだ。
「うやむや」という強かな生き方
踏絵こそしなかったが、日本が負けたことを認める書類にサインをしたことは、喜一郎さんの心に一生傷として残った。実際に日本は敗戦したのに、なぜそれを認める書類にサインすることを、そんなに拒んだのか。今からしてみれば、奇異にすら感じられる点だ。
だが、勝ち負け抗争の発端は1946年正月、ツッパン郊外の植民地で起きた「日の丸事件」だ。纐纈鎮夫宅で日の丸を掲揚して正月を祝っているとの密告を受けた警察が、家宅捜索に行って入植者を暴行した上で連行、車代と称して600クルゼイロ巻き上げた。さらに警察官エドゥムンドが押収した日の丸で革長靴の泥を拭っているのを日本人が目撃したという事件だ。
「日の丸で靴の汚れを拭う」と聞いて怒りを感じる人々や皇室の名誉を重んじた人たちが勝ち組になった。勝ち組=「日本の敗戦を認めなかった人々」というのは、表面上の意味にすぎない。
彼らにとって「日本の敗戦を認めること」=「愛する祖国を裏切る行為」として感じられたからだ。つまり、文字通りの「勝ったか負けたか」という問題ではなく、「祖国への忠誠心や郷土愛の強さ」の問題だった。
これはまさに、米国日系人に課せられた「忠誠心調査」と同じ様な意味があった。
喜太郎さんは、日本を愛する父の強い気持ちを引き継いだから、ブラジル郷土民謡協会が1989年に創立してから2011年に交代するまで、21年間も会長を続けた。しかも喜太郎さんは自分では民謡をうならない。でも、ひたすら愛し続けた。
サンパウロ市ビラ・マリアナ区にある本門仏立宗日教寺でも、喜太郎さんは信者総代を19年間も務め、その間に立派な本堂の建立に尽力した。
喜太郎さんの妹と結婚したのが、南米産業開発青年隊の一員として単身渡伯した菊地義治さんだ。喜太郎さんの後を継いで日教寺の運営面で貢献し、岩手県人会会長、県連副会長、サンパウロ日伯援護協会会長、さらには昨年のブラジル日本移民110周年実行委員長として大活躍したことは記憶に新しい。
戦後に、日系社会で日本語教育や日本の芸能を残そうと手弁当で協力してきた人の多くが、桜庭さんにつながるような志の篤い人たちだった。
米CIAが勝ち組を監視
一方、国会図書館サイト「ブラジル移民の100年」にも、《米陸軍省情報部の日本人秘密軍事組織の情報》という1942年3月の戦中文書が掲載されている。
《米陸軍省参謀部情報部長の報告。信頼できる情報として、サンパウロ市近郊に2万5千人以上の日本人の秘密軍事組織が存在するとしている》(https://www.ndl.go.jp/brasil/data/R/G006/G006-NARA0001r.html)という内容だ。ありえない勘違いだが、当時の米国陸軍省ではそんな話が信じられていた。だから、戦時中にDOPSに勾留された日系社会指導者らを尋問する捜査官の横には、あろうことかアメリカ人外交官がいた。
1946年4月1日、野村忠三郎殺害事件が起きた直後、「勝ち組組織幹部だった」というだけで警察に1200人以上が逮捕勾留された。桜庭喜一郎さんのような目に遭った人が、それだけいた。うち「踏絵に応じなかったもの」を含む470人が監獄島アンシェッタ送りにされ、ヴァルガス大統領による国外追放令まで出された。
だが実際に殺害事件へ加担した約10人以外は、全員が3年ほどで島から解放された。この臣道聯盟事件の刑事裁判は1958年に終わり、実行犯約10人以外は証拠不十分で罪に問われなかった。
結局「大山鳴動して鼠一匹」だった。今からしてみれば「敵国である日本への愛国心が強い」ことが逮捕拘留される事実上の理由だった訳だから、当然だろう。
米国CIAがブラジル日本人社会の動向を伺い、勝ち組に関する報告を本国に挙げていた資料も見つかっている。CIA史料公開サイト(https://www.cia.gov/library/readingroom/home)には、ロンドリーナの勝ち組に関する報告書が収められている。《Tokotai(特行隊、勝ち組組織の強硬派)は日本は大戦で負けていないとか、マッカーサー元帥は日本で捕虜になっているというプロパガンダを広めている》などと書かれ、日本が連合軍に統治されていた1948年11月の時点でも、まだ監視の眼を緩めていなかったことが分かる。
サントス強制立退きをはじめとするブラジル国内の枢軸国側移民社会のリーダーを強制収容するブラジル独裁政権の動きの裏に米国がいたとブラジル人専門家、サンカエターノ・ド・スル市立大学(USCS)で歴史学を教えるプリシーラ・フェレイラ・ペラッツォ教授は明言している。
米国日系人が被った人種差別と同じ背景が、ブラジルにもあったといえる。つまり、勝ち負け抗争は単なるブラジル国内の話ではない。
世界はつながっている――。
賠償請求した米国日系人、しないブラジル
米国日系人は連邦政府の間違いを追及する裁判を起こし、謝罪と賠償金を勝ち取ることで、国家の民主主義の成熟に寄与してきた。そのような多文化主義的な流れで、米国日系人には現在も民主党びいきが多いという。
同じアメリカ大陸の移民・日系人として、全米日系人博物館の展示は、涙なしに見られないものだ。ブラジル在住者にとっても、ロスの博物館はぜひ見学に行くべき場所だと痛感する。
と同時に、ブラジルでは強制収容や強制立退きに関して、日系人は賠償金請求や謝罪請求をまったくしてこなかったことも気になる。アメリカほどひどくなかったのは事実だが、だからといってそのままにしておいていいものか…。
唯一といえそうな謝罪請求は、ドキュメンタリー映画監督の奥原純マリオさんが2016年12月にブラジル法務省に提出した「日本移民に対する公的な歴史見直し」請求だ。ただし賠償金を伴わず、連邦政府の謝罪のみを求めたもの。
18年4月にはブラジル沖縄県人会が定例役員会で、この歴史見直し請求の早期審議開始を求める嘆願書を県人会名義で法務省に提出することを決めた。サントス強制立退き者の60%が沖縄系だった事実をブラジル沖縄県人移民研究塾(宮城あきら代表)がつきとめ、同人誌『群星』第3号から毎号、続々と生の証言を掲載している。
そして、初の監督作品「花と兵隊」(09年)で田原総一朗ノンフィクション賞(奨励賞)を受賞した日本のドキュメンタリー監督・松林要樹さんは16年から、このサントス強制立退き者の証言映像の撮影をはじめ、作品として発表すべく努力を続けている。
近い将来、これらの動きが相まって、実を結ぶ日がくるかもしれない。(深)