中学、高校の部活でバレーボールをやっていた時分、「日ごろの成果が試合に出る」、「普段からやっていない事は本番では出来ない」とつくづく感じた事がある▼150センチそこそこの身長では、少々ジャンプ力があっても、高校レベルでは攻撃要員にはなれない(同好会程度ならOKだが)。必然的に守備専門となり、アタック練習の時は他の守備要員と共に反対側のコートで拾い捲る。だが、ボールを入れた籠の傍に落ちるフェイントなどは、ぶつかるのを避けて足を止めていたら、やはり守備要員だった先輩に「突っ込め!」と発破をかけられた。最初はしぶしぶ、後は調子に乗って突っ込んだ結果は、守備固めに入った試合で対角線上に落とされたフェイントを拾うという形で現れた▼同様の事はスポーツ以外の場でも起きる。練習中に強弱をつけて歌おうとして「弱くした時に言葉が聞き取り難くなる」と注意され、ボリュームを増すよう言われたのに、本番で同じミスをしでかすなどは、その一例だ。体が覚え込んだ事は試合や本番でも出来るが、頭で理解しただけだと肝心なところでは出来ない▼そういう意味でも、普段の生活がその人の書く文章にも表れるという点は、記者も含めたもの書きが心すべき事柄の一つだろう。家に帰ったら靴や服を脱ぎ散らすタイプの人に、繊細でよくまとまり、心のひだに触れるメッセージは語れないと言った聖職者もいた。日常会話だからとぞんざいな言葉遣いをする人には、細かいニュアンスの違いや漢字の違いなどにも留意し、理路整然とした文を書くのは難しい。言葉や文を磨くには、日ごろの生活こそが肝心と改めて思わされた事だった。(み)