県連故郷巡りで米国カリフォルニア州(加州)を見て回って「伯米日系人の最大の違いは何が」と考えた時、やはり日本に対する好感度ではないか、という気がした。というのは、米国日系人の一部には、日本のことを嫌いな人たちが相当数いると聞いたからだ。
例えば、加州で特徴的に物議をかもしている問題に、慰安婦像問題がある。ロサンゼルス郡グレンデール市を皮切りに、サンフランシスコ市、フラートン市の3カ所に設置されている。中でもグレンデール市のそれは、2013年7月と早い。もしもサンパウロ市に設置されたらどうなるか、とゾッとした。
これに関して現地の羅府新報2014年1月30日付英文記事によれば、日系人団体JACL(日系アメリカ市民連盟)のサンフェルナンドバレー支部は「人道に対する罪」を思い出させるものとして設置への支持を表明している(http://www.rafu.com/2014/01/sfv-jacl-endorses-glendales-korean-comfort-women-monument/)のを見て驚いた。サンパウロ市近郊に慰安婦像が設置され、文協の地方理事にもなっている地元日系団体が支持発言をしているようなものだ。
故郷巡り連載にあるように、米国の日系人強制収容への補償運動を主導したJACLの基本的な立場は「米国忠誠・同化主義」であり、戦争相手である日本のナショナリズム的な傾向を忌諱するニュアンスがある。その延長線上に、この支持発言はあったようにも見える。
「日本は戦争を始めた国で、だからこそ自分たちはキャンプに入れられた」という風に幼心に刻み付けられた二世も実際に多いだろう。
大戦中に父の祖国と戦った二世兵士らが、強い心の傷を背負ったことも関係があるだろう。自分の祖国(米国)にはまともに受け入れられず、かといって日本人にはなれないという、アイデンティティの狭間に置かれた辛い経験だ。
二世たちに残された選択肢は「普通のアメリカ人以上にアメリカ人になる」ことしかなかった。そのために血もにじむ凄まじい努力をしたのではないか。いわば、米国日系人は「大和魂の熱意をもって懸命にアメリカ人になろうとした」のではないか。
日系米国人によって形成された第442連隊戦闘団が大戦中、欧州戦線で特攻的玉砕攻撃をもって顕著な業績を上げたのは、まさにそれだったように思う。
言論の自由が保障された米国において、あらゆる言説を表現する事は可能だ。それを言うことによって、ある一定の評価につながって票になると思えば、誰が何を言っても何ら問題はない。その流れの中に、日系人でありながら日本を糾弾することで米国内の一部の支持をえるマイク・ホンダ元下院議員のような政治家が出ても何ら不思議はない。
注意しなければならないのは、だからと言って「米国日系人コミュニティはみなそうだ」と極論してはいけない点だ。
JACLサンフェルナンドバレー支部は像設置に支持表明したが、本部組織は基本的に反対の意向を持っていると聞く。むしろサンフェルナンドバレー地区は元々日系人が少ないところで、しかも四世、五世世代と古く、逆に韓国系やアルメニア系が目立つ土地柄。同支部にも白人、黒人、韓国、アルメニア等の混血が所属してその影響が強いという。つまり、日系の地縁・血縁を軸としたコロニア団体ではなく、イデオロギー的な存在になっているのかもしれない。
「ハワイとブラジルの日系人は似ている」
パンアメリカン日系人協会ブラジル支部の会長を長年務め、米国日系人とも頻繁にやり取りがある矢野敬崇さんに聞くと、「米国とブラジルではだいぶ日系人の気質が違うね。米国の中でも、本土とハワイとは全く違う。日系ブラジル人とハワイの日系人はすごく合うけど、本土の人はちょっと違うね。本土の日系人はアメリカ政府の言い分を一方的に信じている感じ。日本のことを嫌いな二世が多い」という感触を持っている。
「2007年に海外日系人・パンアメリカン合同大会をサンパウロで開催した。あの時、日系軍人の部会を作って、各国に声をかけて来てもらったけど、米国本土の反応が一番悪かったね」と思い出す。たしかにブラジルでは日系団体への日系軍人の参加は普通だし、そこに日伯のナショナリズムの発露を感じることはない。
「日本国外務省研修生が中心になって、JACLからパンアメリカン日系人協会から生まれたから、両社の関係は深い。でもJACLの方はメンバーが高齢化して、かつてのような日系社会の中心的な活動はしていないんじゃないかな」とのこと。「JACLの支部が慰安婦像を支持しているのは知らなかった。日本政府がちゃんと歴史的事実を抗弁しないのも悪いんだ。英語の『性奴隷』という言葉使いをほっておくとかね」と釘を刺した。
終戦直後の負け組二世にも似たような心情
日本を嫌う流れは、終戦直後に思春期を迎えたブラジルの二世の一部にも共通した傾向だ。勝ち負け抗争で日本人同士が殺し合う事件を幾つも起こしたことから、日本的なものを否定して生きる二世世代が生まれた。現在、80代から90代ぐらいの主にサンパウロ市で育った二世層だ。
1946年4月1日、サンパウロ市で最初の勝ち負け抗争による殺人事件が起きた。その時のことを、移民記録文学の金字塔『移民の生活の歴史』(半田知雄著、1970年、サンパウロ人文科学研究所)の第60節「混沌たるコロニアの状況」には、こう書かれている。
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この日の夕刊には、一斉にシンドウ・レンメイ(注=臣道聯盟は、日本戦勝を信じた勝ち組最大の組織)のテロリズムが報道され、コロニア(日系社会)の人たちのみでなく、一般ブラジル人の心情を害することがはなはだしかった。街頭の小児にいたるまで、シンドウ・レンメイを口にして日本人の残虐性をせめた。
こういうゆがめられた愛国的行為が、当時精神的に成長しつつあった二世たちに、どんなに強い悪影響を与えたか、戦後のある時代に彼らが一世から背を向ける原因をなしたことはいうまでもない。
「あれほど崇高な日本精神を説いた一世たちは、こんなにも頑迷、救いがたき人々であったのか―」三月十四日の『フォーリャ・ダ・マニャン』に、ある二世が匿名で邦人社会の醜態をあばきたてたのが、バストス事件に関係のあることは充分にうなずける。青年会、日本人会、臣道連盟等のいき方に対する反撃であった。一世たちの非常識と無知蒙昧を攻撃し、彼個人の意見としては、警察の手で処理するよりほかに方法なしと主張し、啓蒙運動の絶望を暗示するところがあった。
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このように半田知雄も指摘している通り、一世の強い愛国心が起こした勝ち負け抗争によってブラジル社会における日本人への評価が最悪になり、そのことで一番傷ついたのは人格形成期にあった二世たちだった。
彼らは自分の中の日本人性を否定して、周りよりもさらに優秀なブラジル人であることを証明しようと、大和魂的な胆力を発揮して一般社会の中で必死にのし上がった。この世代には、日本文化や日本語を忌諱してコロニアから離れて行ったものが多い。
戦前の1934年、二世大学生グループ「サンパウロ学生連盟」が作られ、ブラジル人としての自覚を強めたエリート二世が日本愛国的な一世と軋轢を起こした。その流れには翁長英雄がいた。エリート中のエリートが入学するサンパウロ州総合大学法学部を卒業し、戦中、最も早くブラジル大手新聞の記者になった日系ジャーナリストの先駆け的人物だ。戦前に日本新聞の社主をしていた父・翁長助成は「二世は良きブラジル人として教育すべし」との主張を貫き、息子をそのように育てた。
そんな翁長英雄を中心に、パウリスタ新聞(弊紙前身)のポ語ページが編集され、そこで展開されたのは「日系人などという社会集団はない。いるのは単なるブラジル人だけ」という主張だった。終戦直後、最も勝ち組と対立する主張を盛り込んだ紙面を作ったのはパ紙ポ語ページだった。
DOPS(政治社会警察)とつながりを持ちながら、権力側から勝ち組を抑圧する勢力として、一部の二世がいた。半田知雄が言うところの《一世たちの非常識と無知蒙昧を攻撃し、彼個人の意見としては、警察の手で処理するよりほかに方法なしと主張し、啓蒙運動の絶望を暗示するところがあった》という活動をした二世たちだ。
終戦後、「日本語ローマ字化」を主張するような負け組の強硬派ですらも手を焼くような、ブラジル愛国的な論陣を彼ら二世は張った。
JACLは米国連邦政府に対して戦いを挑んだという点で大きく異なるが、「移住先国への強い愛国心」=「ルーツ国への忌諱」という思想的な共通性があるような気がする。
勝ち負け抗争を長い時間かけて癒してきた歴史
終戦直後、ブラジル日系社会は勝ち組負け組に分かれて血みどろの争いをした。だが、1954年に負け組が中心になってサンパウロ市400年祭日本人協力会を作り、「受け入れてくれたブラジルを慶祝ために力を合わせる」という大きな枠の中で、勝ち組と協同していく気運を作った。
その協力会が発展的に解散してサンパウロ日本文化協会が作られ、1958年の日本移民50周年で三笠宮ご夫妻を歓迎するという取り組みを通して、ゆるやかにコロニア統合を図っていった。
その流れの中で勝ち組も日本語教育や日本舞踊などの文化活動、日系宗教などに居場所を作って行き、最終的に「明治の日本」を残した。
だから評論家の大宅壮一が1954年に取材旅行のために来伯した際、「ブラジルの日本人間には、日本の明治大正時代が、そのまま残っている。明治大正時代がみたければブラジルに観光するがよいと、日本に帰ったら言う積もりです」と講演した。
故郷巡り団長の市川利雄さん(71、二世、富山県人会会長)の考察「ブラジルでは60年代、70年代まで地方の植民地が活発に維持されて、そこで人格形成した二世、三世がたくさんいる。でも、米国にはいわゆる日系人が中心になった村というか集団地がない。だから日本語や日本文化を残すのが難しかったんじゃないか」という点も大きく関係する。
ブラジルにおける日本文化は、「数百の日本人植民地」という環境が残したという部分が大きい。そこで育った二世は自然と「日本人的な人格」を持ち、そこに、学校教育を通して「ブラジル人としての教養」を詰め込んだ。それが日系人のハイブリッド性を生んでいる。
ブラジルでは勝ち負け抗争が終焉した後、日本語教育や日本舞踊、俳句、短歌、カラオケ、生け花、書道などの様々な活動が行われ、ゆっくりゆっくりと日本文化を根付かせていった。
人文研調査「日系人のほぼ全員が日本人の血に誇り」
サンパウロ人文科学研究所が昨年発表した調査「多文化社会ブラジルにおける日系コミュニティの実態調査」(細川多美子代表)には、非常に貴重な結果が表れている。
たとえば「あなたは日本人の血を持っていることに誇りを感じますか?」との質問に「はい」と答えた割合は、一世で97%、二世で96%、三世で98%、四世で98%、平均は97%。「世代を問わず、ほぼ全員が誇りを持っていることが分かった」という。
そのような日系社会が背景となって437もの日系団体を維持し、うち会館を所有する団体は90%に上る。地方部だと「市で唯一の文化施設になっているところも多い」という。その会館を拠点として「日本祭り」的イベントは88、盆踊りは138も開催され、日本文化を草の根的に広げている。その結果、ブラジルには慰安婦像が作られていないのかもしれない。
とはいえ、ブラジルには日本の歴史を教える大学の講座は一つもなく、日本の歴史をポ語で書いた本は、60年代以来発行されていない。知らないルーツには、なんの愛情も持てない。日本祭りがたくさん開催されているからと安心していてはいけない。
狼に育てられた子供は、自分を狼だと思うようになる。放っておいても人間に育つのではない。人間に育てないといけない。矢野敬崇さんが言うように、ブラジルでも米国でも、日系三世、四世、五世世代への日本文化や日本の歴史をキチンと継続的に広める努力が大切ではないだろうか。
今も残る地方の植民地や日系団体を大切にすると同時に、都市部においても、日系人としてのアイデンティティを整えやすい環境を作ることが大事ではないか。(深)