そんなある日、何年も会っていなかった叔父の樽がアララクァーラを訪れた。それほど頻繁ではなかったが、二人はそれぞれの消息を伝えるために手紙のやりとりはしていたから、あまり詳しくはないが相手の生活について知っていた。ウサグァーが殺されたときそれはセイコウ(彼は沖縄時代から甥の正輝をこう呼んでいた)の問題で、本人が何とか解決するだろうと考え、こちらに来なかったと説明した。
確かにそのとおりだ。正輝夫婦が自分たちの子どもして、家族として、姪の子どもたちを育てることにしたのは正しい判断だったといった。樽はすでに
48歳になっていたが、23年前サン・マルチーニョ耕地に移住して以来の放浪癖はまだつづいていた。労多く、稼ぎの少ないことに気がついたから、沖縄から連れてきた甥の正輝を連れてグァタパラー耕地を逃げたが、けっきょく、そこにも長くは留まらなかった。
そこから叔父と甥は別の道を歩んだ。正輝が稲嶺の家族とタバチンガに向ったとき、まだ、子どものいなかった樽とウシは少しはましな生活を求めてサンパウロ州の北、イガラパーヴァに向かった。別々の生活はそう長くはなかった。3、4年後、二人の子どもをもうけていた樽はタバチンガにいる甥のところにやってきて、さらにそこでもう二人の子どもをもうけた。けれども、いつも仕事からえる収入には満足できず、今までとは違ったことをしようと移っていった。サンカルロスでは菜園を借り、そこでまた二人子どもが生まれた。甥と最後に会ったのはそこに住んでいたときのことだ。したがって、10年ちかく会っていないことになる。
樽にはつもる話しが山とあった。彼はサンカルロスからアラライー駅の近くの「ブラコン(大穴)」というところに移った。まったくブラコンという名にふさわしい場所だ。そこで、8アルケールほどの土地を借り、棉、米、豆、トウモロコシの栽培をした。年上の子どもたちは農園から6キロほどあるアラライー駅のサンターナ耕地共学農村学校に歩いて通っていた。
樽はそこに3年ほどいた。そこからアルフレッド・エリス駅のサンタ・エウドシア近くにまた小さい土地を借りた。土地の持ち主はドゥルバル・アシオリという弁護士だった。そこで、ブラコンのときと同じものを栽培した。ジョアキン・アルヴェス耕地共学農村学校が家から4キロのところにあったので、子どもたちの通学は少しは楽になっていた。
樽の家族はまるで立去ったところにまた戻かのようにしていた。そして1939年には10年まえ借地農をしていたサンカルロスに舞い戻った。土地は松吉家所有のもので、彼は保久原が生まれた村の出身者だった。シマンチュつまり同郷の人だ。松吉家の主人は手にした金で、日本に行った。留守中、義弟に農場の栽培を任せた。ところが一人で農業をするには土地が広すぎた。というわけで、樽の家族が借りられる土地があり、サンカルロスに戻ったというわけだ。樽とウシの子どもたちは成長し、末のルイス(みんなはルウイスと呼んでいた)さえ、10歳になっていた。みんな畑しごとの手伝いができるようになっていたのだ。
サンカルロスはアララクァーラまでそう遠くなく、鉄道で結ばれていた。その間、3駅か4駅あっただろうか。お互いの往来が楽になった。樽の農場も、正輝のも町からそう遠くない。それがいっそう二人の往来をたやすくしていた。
ブラジルにきた初期の苦しい時期、自分の子どもとして扱っていた甥が悲しみに直面している。
1918年、若狭丸で船を下りたときの樽と甥と年齢差は12歳だったが、今は差を感じられない。お互いに対等の立場で話し合えるようになっていたが、甥はもともと感情をはっきり口にしたり、いい訳をしたりしない人間だった。それは、沖縄の人間にも、また日本人にもいえることで、特に悲しみ、心痛を抱えているさい、感情をおもてに現さない。日本人は節度をわきまえるし、慎重なのだ。だから、正輝も何も語らず、感情をもらすようなことはしなかった。
姪のウサグァーの身におこったこと、残されたネナとセーキを正輝と房子の実子として、できるだけ早く入籍したいこと。また、息子のヨーチャンの死に衝撃を受けたことをたんたんと語った。
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