「サンパウロ新聞は私の青春でした」=ベレン支局長、堤剛太さん
サンパウロ新聞ベレン支局の堤剛太支局長(71、宮崎県)は、1974年3月に渡伯しサンパウロ新聞本社編集部に勤め始めた。パラー州ベレン市には77年から移り、同社の支局長として働いていた。
サンパウロ新聞で最も印象に残っている仕事は、75年頃の「日本人学校女性教師自殺事件」、76年頃の「軍警ROTA入隊ルポ記事」、80年の「アマゾン横断道路実走ルポ」。ルポ記事を得意とし、支局長としてアマゾン全域を報道してきた。
今だから話せる逸話は「ブラジル日本文化協会の理事会選挙での不正を暴いた記事を書いたが、握りつぶされた。当時の文協会長、幹部役員が水本社長のもとへやってきて何か取引した様だ」。
廃刊を耳にした心境は「昨年5月には潰れそうだという情報が入っていたが、社主の水本エレーナさんから廃刊の連絡がきたのは今年に入ってから。鈴木社長からは連絡も来ていない。納得がいかず、文句を言いたい部分もある。しかし、経営が前から危うかったし、続けようとしていたのは分かる」とし、サンパウロ新聞の存在は「私の青春でした」と語った。
「むしろ、よくここまで持った」=元営業部長、中野晃治さん
中野晃治さん(82、広島県)は2000年~09年まで9年間、営業部長を務めた。当時は故・内山勝男氏が編集長の時代。自社ビル3階に営業室があった。
まずやったのが社内レイアウト変更。「営業室を地階に移動させた。だってお客さんから遠い営業なんておかしいでしょう」と笑う。
中野さんは売上を伸ばすために月ごとに顧客の新規開拓や売上目標を設定。営業報告書を書き、水本エレーナ専務取締役に提出していた。中でも最も売上を伸ばしたのは特集だった。「式典や日系企業の特集なんかもやったね。顧客リストは2千社くらいあった」。
日伯毎日新聞、パウリスタ新聞でも働いた経験のある中野さんは「当時、サ紙は他紙と比較して発行部数も読者投稿も多かった印象。ファンも多かったね」と語る。
廃刊を耳にした心境は「来るべき時が来た。自分は営業部長としてサ紙の財務状況を把握していた。その時予想していたより、4~5年長く持った。寂しいが、よく持った方だ」と述べた。
「水本光任社長と働けて幸せ」=元専務取締役、日下野良武さん
日下野良武さん(75、熊本県)は21歳の時に南米実習調査団の団員として初渡伯した。1969年、東京都で働く水本早苗マリアさんに出会い結婚を決意。早苗さんの叔父サンパウロ新聞創立者、水本光任氏と会うことに。当時水本氏は55歳。「豪傑タイプで面倒見が良い人だった。土産が無いからと、締めたネクタイを外して渡してくれた」と振り返る。
当時、サ紙は東京支社の開設を考えていた。水本社長は6通も立て続けに手紙を送り、その熱意に根負けした日下野さんは東京支社長を引き受けた。当時、ブラジル進出ブームで邦字新聞は全盛期。「進出企業へ営業に行き、社長に『ブラジルにお宅の企業を伝えなきゃ』と言うだけで面白いように広告商談はまとまった」。社員1人と始めた支社も最高6人を雇用し、企画「ブラジルフェア」や講演会なども行った。
本社勤務を誘われ、82年にブラジル移住。93年、専務取締役として同社を退職した。退職した理由は「人間関係や、週刊誌のような記事内容。元々組織には向いておらず、水本社長が亡くなったのが決定的だった。あんなに力がある人はいなかった」。
廃刊の心境は「退職して時間が経っているので控える」としつつ、「サンパウロ新聞は日伯の懸け橋。働けたのは幸せ。あの当時の仕事を土台に今でも繋がっている人がいる」と感謝を述べた。