1985年、静岡県掛川市に家族の法要で帰郷した折、当時の市長榛村純一氏(故人)と面会した。掛川市は二宮尊徳によって「報徳舎」が開校され、その精神が現在もしっかりと受け継がれており、報徳精神を柱としての町作りが行われてきた。
市長はこの精神を受けて「生涯学習」を提唱し、教育都市として全国に生涯学習制度を広めていった。同時に地方分権を国に訴えていた。多くの地方自治体が視察見学に町を訪れていた。
しかしながら、都市と農村の間には壁があり、都市は栄え農村は相変わらず衰えを感じていた。面会の折に、この壁を話して農村地区の後継者に米国農業視察を勧め、農村がグローバル化の中で確固たる「農業企業、アグリビジネス」ができる為の研修を米国でやることを提唱した。
翌年、市長は30名の農業青年男女を連れて企画した日程に沿って、オレゴン州のポートランド空港にやってきた。オレゴン州ユージン市は、市長が1975年姉妹都市を提携していた関係で姉妹都市訪問とオレゴン州農業の視察をし、その後カリフォルニア州の主要な農業地帯を北から南まで視察して廻った。
途中のベーカースフィールドでは2日間の農家滞在をして、詳細なる経営形態の視察調査が出来た。その後、2年間にわたってこの視察研修が行われ、100名が米国最大の農業州で学ぶことが出来た。
1988年、竹下政権は全国市町村に向けて「ふるさと創生事業」と称して1億円を提供した。この時、再度市長を訪ねると1億円の使途の相談があり、グローバル化の時代に相応しい事は「先進国米国の掛川市民の基地を作る企画」を提案した。
当時米国は農業不振で農地の売りが各地で見られた。先の農村青年男女のオレゴン、カリフォルニア州の農業視察当時にもこの「FOR SALE」の看板があちこちで見られた。
議会での賛同を受け、姉妹都市ユージン市の郊外に100ヘクタールの農場を購入し、「K―ECO(掛川教育センター・オレゴン)」と命名し、現地での滞在教育事業として、一般市民を始め中高校生、教員、市会議員、市職員、看護や保険所、消防や商工会、森林組合、JA農協の研修が、現地ユージン市や大学との協力を得て行われた。
100ヘクタールの農地は隣接の農家に賃貸し、母屋に隣接した土地10アールにはブルーベルーやチェリーを植え、管理者を募集し、優秀な家族を雇用してセンター施設の管理や滞在者のお世話をお願いした。
このK―ECO事業は日本の市町村事業としては最初の試みであり、全国から市長始め担当課への問い合わせやインタビューで役所は忙しく対応した。
静岡新聞もニュースで取り上げ、私も現地責任者として静岡新聞社からのインタビューを受けた。自社の仕事と同時に月1―2回の出張で管理人との運営管理の全体を話し合い、市長兼社長に報告し運営しを続けた。
1億円の内6千万円を農場購入に当て、残りはニューヨークの駿河銀行に預金し6―7%の利息を得てK―ECOの管理に当てたり、中高校生の研修費にも支出した。(第8号に続く)