断片的にせよ、部分的にせよ、情報は日本人たちにきちんと伝わっていた。まぎれもなく強国アメリカに抗する作戦が成功し、アジアへの侵攻速度を増したことが伝わっていたのだ。軍事力の優位が戦場で示され、天皇の賢明さが日本帝国の不滅を象徴していた。そして、それが子どものときから植え付けられた天皇崇拝となって現れていた。
しかし、正輝はこういった集まりには参加しなかった。むしろ、彼らを避け、ひとり考えに耽っていた。
1942年のはじめ、房子は5度目の妊娠でお腹が大きくなっていた。正輝は普段とまったく同じ精神状態で、予定日は4月のおわりなので、日本軍のアジア侵略を出産祝いといっしょに祝おうと考えていた。東の大国建設にあわせ、子どもをつれ夫婦で帰国し、広大になる新しい帝国のため一肌脱がねばと思ったりしていた。家族にとって出産は習慣のようなものだった。房子には5回目の経験なのだ。こんども正輝の手を借りた。今回はもくもくと自分に課された家事をこなすほか(食事はネナも手伝い、家族の夕食を作るため何度も釜戸のまえに立った)植え付けしたり、アララクァーラの朝市に生産物を売りに行ったりした。
今までの4人と違って今回は女の子が産まれた。1942年4月30日、夫婦にとって最初の女児が生まれた。両親はその子をセツコと名付けた。
日本人の間ではそう珍しい名前ではない。ただ、沖縄人の正輝、房子、そしてマッシャードス区の近所のひとたちは「tsu」を「chu」と発音した。あまり上品ではない、田舎くさく、古風な発音で、沖縄の人はこのように発音する人が多い。それで、マッシャードス区の沖縄の人は「せちゅこ」と呼んだ。
家族の間では、他の子どもたちと同様、「ちゃん」を付けず、短縮して呼んだ。
「ヨーチャン」は本当は「ナオシゲ」という名なのに「ヨーチャン」となぜか「ちゃん」付けで呼んでいた。セツコの場合、沖縄式短縮形で「ツーコ」となった。
長男のニーチャンと次男のアキミツは学校に通っていて、ネナも入学していた。長男は歩くとき、二人より二歩ほど先に行った。これは正輝がいつも房子より先を行くのと同じだった。これは家族の中の上下関係を表すしきたりで、家長、長男がその他のものの先となった。
マッシャードス区のミスタ(男女共学)小学校の生徒たちのほとんどがそうであったように、ニーチャンと弟妹たちは裸足で通学した。学校仲間や近くの人の中で靴を履いている子どもは少なかった。田場のマリオやオリンピオ(ハンサムというあだ名で、ポルトガル人、マネプラッタの子ども)たちは、アルパガタと呼ばれるズックではあるが足を守るには最低限必要な履物を履いていた。
陽が強い日中、土が焼け、足も焼けるので、裸足の子どもたちは、道端の草が小さくまとまったところをあちこち探し飛びながら進んでいった。2学期のはじめ、今度は足が凍るように冷たくなった。特別寒い日には兄弟は靴を履いて通学した。底にタイヤを張った黒い革靴だった。重くて粗末な靴だが、靴には違いなかった。白いメリアスの靴下をすっぽり包んでくれた。ネナのは靴というより手製にちかい草履だった。