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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(115)

 幸い、学校はそう遠くなかった。灌水用水門の先のボア・エスペランサ・ド・スール街道に出る土の道を歩き、オウロ川の向こう側の石切場を通り、ボア・エスペランサに向けて歩く。アララクァーラを通り過ぎ、500メートル行けば学校に着く。学校はアララクァーラで名の知られた富豪所有のルポ農場の一部に建てられていた。将来、正輝はほかの子たちも学齢期に達したら、そこに入れることにしていた。
 学校は小学1年生から3年生までしか受け入れなかった。学年別の教室はなく、男女すべての生徒がひとつの教室で、ひとりの先生から授業を受けた。午前中はマリア・アメリア・ファヴェロという上品で、洗練された先生が受けもち、服装も場所につりあわない都会風な服を着ていた。授業はきれいな字の書き方、読み書き、算数、ポルトガル語、科学、カテキズムがあった。カテキズムはカトリック教義で月に一度ベルナルド神父が担当し、聖体拝領の大切さを教えた。
 日本移民の家庭の風習として、正輝も女性の立場をいちだん低く考えていた。だから娘を独身時代には家事を手伝わせ、必要なときには畑仕事にも手をかすよう仕向けた。ある年齢に達したら、娘に家事をまかせ、母親の手を責任の重い畑仕事にかり出そうと思っていた。
 しかし、正輝には良識があり、内地の浜松で職業訓練まで受けた妻房子の意見も受け入れ、ネナを学校に入れることにした。少なくとも、マッシャードス区の小学校にある学年までは勉学させよう。そのあとで、家事をまかせ、適齢期になったら結婚相手を見つけてやり、それまでの家事の経験を生かすことができればと思っていた。セーキとミーチは学校に入れるには年齢が足りなかった。
 ちょうどそのころ、マッシャードス区に沖縄人をはじめ朝市でいつも会っている蔬菜栽培者たちが、日本独特の相互援助の会を作った。経済共同体の一種で、書面による保証はまったくなく、仲間同士の信頼関係だけで成りたっていた。毎回、各自がある金額を出し、それをくじ引き、話し合い、あるいは入札でなかのひとりが金を受け取った。金をもらった者は次の集まりからまだ金を手にしていない者より多く出した。
 このような互いの信用だけにもとづく共同資金調達のシステムを日本語では「頼母子」といい、沖縄の言葉では「ユレー」とよんだ。銀行融資の道は言葉ができないばかりでなく、担保となるものがないために閉ざされていた。
 多くの移民にとって、頼母子だけが特別経費を得る方法で、零細業を維持していくための資金供給源でもあった。
 人類学者、ルッテ・コレーア・レイテ・カルドーソはこう記している。
「頼母子講は資金を必要としている人、あるいはその友人、または融資したい人が発起人となる。普通、書類による保証はない。まずはじめに、一回に出す金額を決め、その人数によりどのぐらいの間つづけるか決める。たいていは1年あるいは2年間で、参加者が変わる可能性もあるので、長期間は避ける。投資期間が決まると、全員が月に一度、規定された場所に集まり、1ヵ月分の金額を出す。総額がその月にいちばん多額の利子を申し出た者に貸される。メンバーのなかには他の者より金を手にしたい者がいて、そのため、高い入札を提示する。各自、入札額を紙に書き、だれにも内容が知れずに集められる。