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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(117)

 この独特の味は沖縄出身者以外には奇妙な食べ物と思われたが、ウチマンチュには特別な食べ物で、みんなに好まれた。食べるときはまるで儀式でも行うようにうやうやしく、感謝や賛美の言葉を交わした。それ以前に火にかけられた熱い鍋に近づく者はだれもいない。
「やっと、いただくことができます」とか
「ヤギ汁をいただく機会に恵まれたことを感謝します」とか
「みなみな様、ご先祖様のお許しのもとに、このヤキ汁をいただきます」といってから食べた。
 食べたあとにも褒め言葉がつづいた。
「こんなに美味しいのを食べたことはない」という者もいた。
 こうした褒め言葉をのべるのも儀式のようなものだった。まったくシンプルな味付けなのだから、普通の人間に味の良し悪しをくらべることなどできなかったはずだ。

 アジアにおける日本軍の成果は、ブラジルに住む外国人の活動に対する政治的弾圧という形ではねかえってきた。祖国への国粋主義に対してそれは顕著に現れた。新国家体制を強く推進するナショナリズムが移民の自国に対するナショナリズムを許せなかったのだ。ヴァルガスの独裁政治、新国家体制に入ってすぐの1938年に、外国語の教育が禁止された。他の弾圧行為もつづいた。
 1940年から、日本語の新聞の発刊が禁止された。ただし、すべての記事にポルトガル語の翻訳がつけば発行を許可された。そのころ、まだ翻訳家が少数だったため、費用がかかりすぎた。そこで、1941年7月から12月のあいだに社の意向や政府の命令により、すべての日本語新聞社は活動を停止した。
 邦人社会に及ぼす影響ははかり知れなかった。その当時、ポルトガル語による出版物を読めるものは数少なかった。ほとんどの移民は邦字新聞を通して、本国からの情報、ブラジル内の同胞の活動を知らされていたのだ。
 1939年、輪湖俊午郎氏が出版したサンパウロ州ノロエステ鉄道沿線の移民調査によると、1万1576人のうち、9・3%の人が児童雑誌を講読し、10・1%が婦人雑誌、51・2%が男性雑誌を読んでおり、なんと、87・7%の人が新聞の購読者だったと報告している。雑誌はほとんどが日本で発刊されたものだが、新聞は全部ブラジルで発刊されたものだった。ポルトガル語の雑誌名をあげたものはひとりもいない。ただ、町に在住するほんの一握りのインテリだけが約100ほどの書物名をあげ、あるいは当時出回っていた新聞を読んでいたと判明した。
 これらの数字は一方では移民の学歴の高さを物語り、その一方、ほとんどの人が情報を日本語の報道に頼っていたことを示している。だからこそ、新国家体制の弾圧は邦人社会にはかりしれない影響を与えたのだ。

「悲惨な戦争の結末、日語新聞の発刊禁止、この二つは終戦直後の世代に痛ましい影響を及ぼし、同胞の間に混乱状態をひき起こすことになった。移民たちはたったひとつの情報源を打ち切られ、囚人同様の孤立状態に追いこまれたのだ」