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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(119)

 ブラジル人やヨーロッパ系の移民が正輝や日本移民に使う「ジャポン」というよび方が、今までより政治的差別語としての意味あいを増してきた。わざと日本移民の発音をまねた「ジャポン」といういい方が皮肉、軽視、軽蔑を表していた。自分たちとはちがった人間、人種、一段下の階級に属するというほかに、ブラジルの敵という意味が含まれだしたのだ。
 今まではっきりと表面化しなかった反日感情が連邦政府高官やの政治家の演説や書類のなかにふくまれるようになり、移民が「ガイジン」とよんでいた日系以外の者たちも侮辱的、攻撃的態度をとるようになった。
 それは日常生活に顕著に現れ、ますます苦しい状況においこまれた。「枢軸国生まれの活動を取り仕切る」目的で、サンパウロ保安監督省は1942年1月19日、ドイツ、イタリア、日本の「臣民」に次のような法令を発布した。自国語による書物の発刊、自国の国家斉唱と演奏。権力者への敬礼、集会や公衆の場での母語の使用、公の場での自国総統写真の展示、サンパウロ保安監督省が出す通行許可書なしの旅行、祝いごとの集まり(個人の家においても)、公衆の場での国際状況の演説、以前、許可済みの武器でもそれを使用すること、警察への事前報告なしの住居移転、たとえ自家用機によっても、許可なしの飛行機による旅行。これらのことすべてが禁止された。
「ションベンするのもいちいち警察に報せるのか?」正輝は皮肉たっぷりにいった。だが、実情は最悪だった。公衆の場で日本語が使えないのだから、移民たちは屋外で会話を交わすこともできなかった。ポルトガル語が話せるのはほんのわずかで、大多数の者は売り買いのために、カタコトの単語しか口に出せず、返事をするのも、物の値段ぐらいしか言えなかった。相手に意味が通じないことも度々だった。ポルトガル語にしかない音節を日本語にあわせて発音したり、話しの語順を2カ国語ごちゃ混ぜにしたりした。ほとんどの者は動詞の活用もしらず、単数、複数、そして男女名詞の使い分けなどできなかった。
 こんな乏しいポルトガル語の知識しかない者が複雑な文を考え、それを口にしたり、きちんとした自分の意見を述べることなどできるはずがない。
 道端で出会っても、ポルトガル語でしか挨拶を交わすほかなかった。法令をそのとおりに解釈したら、日本人は「おはようございます」「こんにちは」と挨拶することもできなかったのだ。仲間と家に集まり、しゃべることもままならない。内緒で会うのならべつだが… 情報などなく、あるとしても、お上の目を盗んで、情報交換せざるをえなかった。
 場合によっては枢軸国からの移民に対してさらに、厳しい処置がとられた。2月のはじめ、保安を理由にサンパウロ市リベルダーデ区のコンデ・デ・サルゼーダス街に住む日本移民ははじめての立ち退きの勧告をうけた。そのあとすぐ、枢軸国の移民たちの財産が凍結された。多くの不動産が連邦政府の手にわたり臨時行政官によって管理された。在ブラジル日本人同仁会、-のちのブラジル援護協会-(マサユキを身ごもっていた時、狂犬に噛まれて世話になった同仁会)が苦難の末にヴィラ・マリアナ区に建てたサンタクルス病院も政府の手に渡ってしまった。