汎アマゾニア日伯協会会報『パンアマゾニア』266号31ページから35ページにかけて、堤剛太同協会副会長が書いた記事を、本の許可を得て転載する(編集部)。
その足跡 ①
第一回移民が到着
2019年、当地北伯日系社会は、日本人移民入植90周年記念の年を迎えます。これまでに、小誌(『パンアマゾニア』)では、機会ある事にアマゾンの日本人移住の歴史を取り上げてきています。
今号では、これまでの記録ではあまり記されていなかった第一回移民到着当時の様子を、別の観点から書いてみたいと思います。
1929年(昭和4)7月24日、南拓(南米拓殖株式会社)が送り出した第一回のアマゾン移民43家族と単身者9名の合計189名は、神戸港から大阪商船のもんてびでお丸に乗船しリオデジャネイロへ寄港したのが9月7日夜、丁度ブラジルの独立記念日であった。
もんてびでお丸に乗っていた当時12歳の大橋敏男少年は、港を埋めている船舶がイルミネーションで飾られ、軍艦からのサーチライトが夜空を煌々と照らし出す光景に目を見張り、「ブラジルの人達が自分たちをこんなに歓迎してくれているとは」と、感激した事を自叙伝に記している。
もちろんこれは、独立記念日を祝うためのものであった事を大橋少年は後で知るのだが。
リオのイーリャ・ダス・フローレス(花の島)移民収容所には、南拓取締役新井高次農学士並びに監査役前田光世(コンデ・コマ)がベレンから一行を出迎えに来ていた。
この収容所で撮影された、移民達の集合写真は有名でアマゾン移民を紹介する記録には決まって登場する写真である。
実は、この写真は単なるブラジル上陸記念の写真ではなくれっきとした撮影動機があったのだ。
それは、排日運動のさなかアマゾン地方の発展の為に日本人移民を誘致しようとリオの日本国大使館を訪ね、この日の第一回移民を実現させた最大の功労者であるパラー州前州統領ディオニージオ・ベンテス上院議員が、同じくパラー州出身の有力政治家デオドロ・デ・メンドンサ下院議員を伴い8日同所を訪問してきたのである。
この恩ある人物の収容所訪問に、移民一同は敬意を表し両議員との記念撮影を行ったものであった。
移民収容所は、グァナバラ湾内にある花の島という美しい名前の島内にあったが、1883年に建築された建物は古く薄汚れ室内の鉄製ベッドは錆だらけで、当時ここへ宿泊した人は「獄舎のようだった」と、懐古している。もっとも、本当の刑務所になるのは1932年からであるが。
翌8日、リオからベレンまで移民達を運ぶ「まにら丸」に乗り換え出港。大西洋を北上しアマゾン河河口のサリーナスの寒村から、グァジャラー湾へと入ったのが9月16日午前7時半頃であった。
現在でもそうだが、アマゾン河を大型船が通航する際には「プラチコ」と称される水先案内人が船に乗りこみ操船をするようになっている。
これは、アマゾン河の水量が秒当たり8万立方メートルという膨大なものの為に、大量の砂が上流から押し寄せ河の瀬が始終移動している事から、大型船だと浅瀬に乗り上げ、座礁の可能性が高いからである。
と、言う事で「まにら丸」に乗り込んできたのはマヌエル・ド・エスピリット・デ・ブラガンサというベテランのプラチコで、第一回移民船の舵取りをしたおかげでその名前を記録に残す栄誉を受けている。
因みに、まにら丸の船長は大野にすけと言う人物であった。(つづく)