同船は、ベレンの町のVal de Caes地区(空港付近)の対岸にある小さな島フォルチーニョ島の後方を流れるミーナスゼラエス水路に停泊した。この辺りは、グァジャラー湾内で水深が一番深い場所(7mから10m)で、移民一行は翌朝から河船でベレンの町へと向かい、上陸を開始している。
これまで筆者は、まにら丸が停泊した位置はベレン郊外のイコアラシーの町の沖合で、また上陸した桟橋もイコアラシーの大桟橋と思いこんでいたが今回、当時の地元の新聞を読んでいてその間違いに気付いた。イコアラシーよりもっと湾内つまり、ベレンの町に近い移民収容所近くであった。
移民の通関手続き所には、南拓の福原八郎社長やマリオ・ギマランエス秘書、南拓職員その他、コンデ・コマ(前田光世)夫妻等が立ち会っていた。
南拓が所有する移民宿泊所は、グァジャラ湾岸にある400人収容のクーロ・ヴェーリョの建物でまた、船が接岸できるように140メートルの長さの桟橋もこの日の為に改修されている。
桟橋付近には、初めて日本から来た移民を一目見ようとたくさんの市民達が集まっていたと当時の新聞が報じている。パラー州とベレン市では、この9月16日を記念してアマゾン日本人移民の日と制定している。
ところで、当時の新聞記事によると日本人移民がベレンへ上陸したのは189名でなく185名となっている。
これは、単に新聞の報道が間違っているのかそれとも、リオデジャネイロからベレンまでの航程で何か起きたのかこの機会に調べてみる事にした。
結果は、新聞記事は間違っていなかった事が判明したのだ。実は、リオへ到着前のもんてびでお丸船内でアカラー移民の一家族中に病人が出て、同船がリオへ入港と同時に市内の病院へと入院していたのだ。
一家は、病気回復後に入植地へ向かっている。この件は、1929年9月27日付で南拓から外務省通商局へ出している報告書の中に記載されていた。意外な事実で有ったが何でも、調べてみるものである。
南拓の移民収容所について、これまであまり触れられていないがこの機会に紹介しておこう。
この建物は、1861年に屠殺場として建設されたものでネオクラシック様式の堂々たる建築物である。1905年に、ベレン郊外のイコアラシーに新しい屠殺場が出来た事からこの場所が閉鎖を余儀なくされ、7年後の1912年に操業をストップし全面閉鎖となった。
その後、ガス会社や化学薬品の倉庫として使用されていたが1929年に南拓が借り受け、改修工事の末同年9月に移民収容所として模様替えしたものだ。
この折に、140メートルの長さの桟橋も大改修を行っているが、翌年の1930年12月10日にベレンへ到着した第5回移民小野正氏の自叙伝(アマゾン移民少年の追憶)を読むと、「桟橋の踏み板は隙間だらけで足を取られる人が続出して大騒ぎでした。」と、記載されている。
大改修後、僅か一年でこの状態とは。先に記した花の島の収容所が「獄舎のようだった」と、回想しているのも当時10歳の少年だったこの小野正氏で有る。
一行は、ベレンの移民収容所で5日間休息した後、21日南拓の汽船「アントニーナ」でアカラー川を一晩遡行し、22日午前8時30分植民地の桟橋へと辿り着いた。日本を出て実に、60日間の長い旅路であった。
移民達を神戸からリオまで運んだ「もんてびでお丸」は、日本で最初のディーゼル貨客船「さんとす丸(7267総トン)」と同型の三番船として、1926年に三菱長崎造船所で作られた当時の最新鋭船であった。
また、リオからベレンまで乗船したスチーム(蒸気)船の「まにら丸(9482総トン)」は、1915年製造の旧型船としてこの後、アフリカ東岸航路に転じている。(つづく)