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アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(3)

当時の南拓事務所の広告

 では、なぜ第一回移民達はリオで「もんてびでお丸」から「まにら丸」へ乗り換えたのだろうか。それは、日本から南米への往路コースは次のように決まっていたからだ。
 神戸を出ると、香港、サイゴン、シンガポール、コロンボ、ダーバン、ポートエリザベス、ケープタウン、リオデジャネイロ、サントス、ブエノスアイレス。
 と、言う事で「もんてびでお丸」は、南伯やアルゼンチンへ向かう他の移民達を運ぶためにリオデジャネイロ出港後は、サントスへと向かって行ったのだ。
 一方、「まにら丸」は「もんてびでお丸」より一便先に南米向けに出航していた。最終寄港地点であるアルゼンチンのブエノスアイレス港を8月27日に出航、日本帰国への復路を辿っておりサントス経由でリオへと入港した。
 ここで、第一回アマゾン移民達を乗船させベレンへと向かったものだ。「まにら丸」には、ベレン港で降ろす90トンの小麦粉が、ブエノスアイレス港から積み込まれてあった。この「まにら丸」が、日本船としてベレンの港に入った第一号の船となった。
 第一回移民達がベレンで下船したその夜、大阪商船・南拓側では州の要人を同船に招いての晩餐会を催している。
 招待されたのは、エウリコ・デ・フレイタス・ヴァーレ・パラー州統領(日本人移民を招致したディオニジオ・ベンテス州統領の後任者)や州政府要人、海軍、警察、税関、移民局、カトリック教会大司教、マスコミ、領事(英国、フランス、ドイツ、スペイン、米国、ボリビア)等の他、南拓側から福原八郎南拓代表、植木等支店長、コンデ・コマ。大阪商船を代表しマモル・サカオリ氏(サントス代理店代表)が居た。
 同船は、移民達を降ろして翌日さっさと日本へ引き上げて行ったわけでは無かった様だ。日本側は、これからの事もありパラー州側へきっちりと礼儀を尽くしていたのだ。
 また、晩餐会の招待者中、各国領事の顔ぶれを見ると当時、ヨーロッパの多くの国が当地に領事館を開設していた事が良くわかる。
 当時、ベレン、マナウスからイギリスのリバプール港と米国のニューヨークまでは月一回の定期航路が通っていた。ベレンから、アメリカやヨーロッパへ行く日程は、サンパウロまで行くのと同じくらいの日数で有った。
 当時のアマゾン地方は、サンパウロやリオよりもむしろ、ヨーロッパやアメリカと文化や経済とが強く繋がっていた様だ。
 現に、ベレンやマナウスにはオペラ劇場がありヨーロッパから一流の歌劇団が公演に訪れていた。
 また、マナウスには当時、英国系企業の「アマゾン河汽船航行会社」や「アマゾン電信会社」「マナオス電車電燈会社」「マナオス築港営業会社」。ベレンには「パラー工事会社」「パラー電鉄電灯会社」等があった。また、米国系企業の「マデイラ・マモレー鉄道会社」「パラー築港営業会社」も、アマゾン地方に投資していたのだ。
 ところで、第一回アマゾン移民をベレンまで運んだ「まにら丸」のその後であるが、1931年南米航路からアフリカ航路へと回され、戦争開始直前の1941年11月に陸軍に徴用されている。
 そして、1944年11月25日にジャワ海で、米国の潜水艦「MINGO」による魚雷攻撃を受けて沈没している。
 神戸からリオデジャネイロまで移民達を乗せたもう一つの船「もんてびでお丸」も戦争で同じ運命を辿っているが、こちらはもっと悲惨な最後で有った。
 同船は、海軍の輸送船として徴用され、1942年6月22日にラバウルを出港し海南島を目指した。
 そして、7月1日ルソン島の北へアドール岬沖で米潜「スタージョン」の魚雷攻撃を受け、発射された2発の魚雷を右舷に受け重油タンクが爆発、船尾から沈んでいった。
 実は、この船の船倉には捕虜1053人(豪軍人845人、民間人172人、その他36人)が乗せられていたのだが、捕虜全員が死亡という痛ましい出来事で有った。(つづく)