6月はじめ、アメリカ軍は牛島が設定した防衛線を突破、島の南方に前進した。彼らは正輝が生まれた新城や房子が生まれた玻名城の近くを通って具志頭に侵入した。
日本軍の抵抗は皆無といえた。降伏することは軍人の恥とみなされ、とくに上位の軍人ほどそう思っていた。敗北がはっきりしたとき、牛島中将と上官の張勇参謀長は割腹自殺した。何百人もの軍人がその階級を問わず手榴弾で自決した。そして、沖縄は血の海と化した。
太平洋戦争のなかで最も悲惨な戦いだったといえる。82日間の戦闘で、10万7000人の日本の兵士が死んだほかに、2万3700人が洞穴に埋められた。1万2000のアメリカ兵、そして、10万人以上(14万2000ともいわれる)の沖縄民間人死んだ。3万8000人のアメリカ兵が重症をおい、1万700人の兵士が捕虜となった。だが、その数は全召集兵士の10%に過ぎない。
アメリカ側の物的損害は34隻のいろいろなタイプや大きさの船舶や368隻の海軍の艦艇が損傷を受け、763機の戦闘機が撃墜された。
だが、日本側の物的損害はそれよりずっと大きかった。4月6日、軍隊は沖縄に出動したが、空からの攻撃には無防衛だった。史上最大の戦艦大和が翌7日、敵軍の潜水艦と、戦闘機により沈没され、航空母艦としての役が不可能となったのだ。軽巡洋艦と駆逐艦8隻からなる護衛艦も沈没したか、ひどい打撃を受けていた。沖縄戦で日本軍は16隻の戦艦、九州の基地から出発した神風特攻隊の1465機を含む7830の戦闘機を失った。
戦闘が始まる前の記録では沖縄の住民は30万人となっている。戦後その数は19万6000人で、なんと3ヵ月足らずのうちに、三分の一以上の人がいなくなってしまったのだ。台風、旱魃、貧困、空腹いわゆる「ソテツ地獄」に慣れているとはいえ、想像もつかない、言葉では言い表せない状況を迎えていた。「荒廃」とはこういう状況を指すのだろう。沖縄の戦争は前代未聞の出来事だった。
皮肉なことに、この産物もなく、自然現象に罰せられ、貧乏だが、明るい気性の島民を養い、長い間中央政府から見放されてきたこの沖縄が、日本の将来の行方を左右する場所になったのだ。日本は沖縄をとられないため、そして、アメリカは沖縄をとるため、双方は必死に戦った。もし、日本が沖縄を維持できたら、本土への道を防ぐことができた。アメリカは沖縄を占領すれば、日本へ上陸し、本格的攻撃が可能となるのだ。沖縄戦の結果、日本はアメリカの前進を阻止できないと悟った。
4月のはじめ、東京は大空襲を受け、アメリカ軍が沖縄に上陸したとき、9ヵ月前、東条英機の政権を引き継いでいた小磯国昭首相は辞職した。
あとを継いだのは鈴木貫太郎元連合艦隊司令長官だった。沖縄戦争の人的、物的損失に陸軍、海軍両大臣は動揺したものの、陸軍高官に強い影響力をもつ元東条首相に支持を受けていた阿南惟幾軍陸軍大臣は平和交渉が始まることを阻止していた。
アメリカ軍が沖縄を占領してから一ヵ月後、また、ドイツが無条件降伏(5月9日)してから2ヵ月半の1945年7月26日、四ヵ国の首脳会議が開かれ全日本軍の無条件降伏を宣言した。その宣言には降伏のあと、全日本を軍の占領下におき、軍事力を放棄させ、これまで日本が占領した土地を破棄させることが含まれていた。
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