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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(136)

 そして、日本政府高官らの日本への引き揚げについて批判している。「戦時中はどのように行動すべきか、また、おこりうる虐待、困難に対しどう対処するか、政府代表者はブラジル在住の同胞を正しく導く義務があった。にもかかわらず、意味もない通達だけ残して、引き上げてしまった。もし、昔の武士のような人間だったら、帰国命令を受けたら、即座に退職し、ただの移民としてブラジルに残り、30万人の同胞とともに生死をともにしただろう。もし、それが不可能だったら、武士のようにいさぎよく切腹しただろう」ともいっている。

 終戦のニュースを受けて、日系社会は混乱状態となった。大半の移民たちは日本の敗戦はデマだと思った。正輝の仲間たちもそう思い集会を重ねた。何回も集まる必要があったのだ。ブラジル人が読み、仲間にも何人かが読めるポルトガル語のブラシル情報より、信用できる同胞の情報を盛んに交換しあった。同胞の精神を高揚させ、母国を守るために役立つ組織を作ろうと考えた。
 また、文書や討論会のよびかけが仲間の何人かに手紙で送られてきた。この先どうするか、これらのことが同胞たちの間の集会をもり上げた。メンバーは津波元一、高林明夫先生、洗濯業の湯田幾江、朝市の屋台主で運送業の保久原正輝、ホテル主の有田博夫マリオなどずっと前から集まっている者たちだった。それに、三保來槌が加わった。広島県生まれで53歳、ブラジルにきて34年、カフェー街に小さな店をもっていた。もう一人集会に参加するようになったのは藤本坂末。1891年山口県で生まれ、グループで一番年上だった。サンパウロ大通り92番の有田氏が営むリスボア・ホテルで何度も集会がくりかえされた。
 これら同胞は吉川が作成し渡真利の書いた書類の存在を知らなかったかもしれない。しかし、幼いときから学び、それを信じつづけた彼らにとって、日本が戦争に負けるなど、到底受け入れられないことだった。母国の勝利を確信していた。それだけが誇りで、生きがいでもあった。けれども、ほんの一握りでもブラジル側が発表した嘘の情報を信じ、誤った考えをもつ同胞が存在するかぎり、その事実をはっきりさせなくてはならないのだ。彼らはいま、それを知るためやっきとなっていた。彼ら同様、他の移民たちもそう考え、それに力を注いでいた。
 そのような状況のなか、臣道聯盟が現れた。母国の政府から見捨てられ、航路を見失った者たちとって、広範囲にわたり情報や支持をつたえるこのような団体の誕生は救いそのもので、多くの在住日本人に生きる力を与えた。そして、臣道聯盟の活動は信じられない速さで広まり、日系社会から多大な支持と尊敬を受けるようになったのだ。
 アララクァーラのグループがこの団体に加わるのは自然の成り行きだった。
 サンパウロ州、パラナ州の各地から大勢の日本人がこの団体に参加した。日本移民の先行きを示した会報が発刊されだした。吉川中佐の着想力、根来良太郎の知識力、そして、渡真利成一の組織力により、臣道聯盟はわずかな期間に日本移民が点在する町に支部を設けたり、代理人を置くことができるようになったのだ。
 移民たちは連帯感を深めるため、組織運営に充分すぎる定期分担金を団員として差しだした。各メンバーは最低、月に5クルゼイロ負担した。