ニッケイ新聞主催の『第63回パウリスタ・スポーツ賞』の贈呈式が今月9日、サンパウロ市議会の貴賓室で盛大に開催された。戦後の勝ち負け抗争で二分された日系社会において、スポーツ振興を通じて融和を図る目的で創設された同賞。今年は19部門から25人が受賞し、家族や友人らも合わせて会場に約300人が集まり、栄えある受賞を祝福した。式典では、野村アウレリオ市議、楠彰在聖首席領事、下本八郎元州議、各日系団体の代表者らが来賓として登壇し、受賞者らの長年の功績を讃えた。
受賞者らは名前が呼ばれると前に出て、拍手喝采の中、各スポーツ団体の代表者と来賓から笑顔で記念プレートを受け取った。会場には親戚や友人が駆けつけ、時には大きな歓声が上がった。
「ハジメマシテ!」と礼儀正しく日本語で挨拶し、受章者を代表して謝辞を述べたのは、リオ市在住のオズワルド・クペルチノ・シモエス・フィーリョさん(66)。元ブラジル柔道代表選手として活躍し、現在は指導者として普及に貢献している。
シモエスさんは、バイア州サルバドール市出身。17歳の時に柔道の大会を観て、「他の競技と違って、勝っても最後は礼をして終わる。相手に敬意を払うところが気に入った」と柔道を始めた理由を明かす。
当時同市に住んでいた故吉田和男さんに師事し、汎アメリカ大会等の数々の大会で優勝。世界大学柔道選手権でブラジル人として初めて優勝した。80年には、モスクワ五輪の重量級でブラジル代表として出場している。
リオ州でガマ・フィーリョ大学院を卒業後、長い間教育者として務め、学長にもなるなど、柔道を大学教育に取り入れてきた功績は大きい。
11年の東日本大震災で津波被害から復興を果たしてきた日本とブラジルを比較し、「日本の災害復興の早さは凄い。ブラジルは政府が災害復興支援のお金を出しても汚職でどこかに消えてしまう。戦後に一番発展した国が日本だと思う」と手放しで称賛。敬愛する日系社会から初めて表彰されたことを「大変な名誉です」と喜んだ。
下本元サンパウロ州議は祝辞で、「日本人が港を出航する際、天皇陛下は『移住する国に愛を持って貢献してほしい』と述べられたと子供の頃に聞いた。私達はその子孫」と日本人移民の原点を強調し、「多くの苦難乗り越えて今日の活躍を迎えたことを誇りに思う」と語った。
式典後は、受賞者や家族が晩餐会に参加し、栄えある受賞の喜びに浸った。式典には間に合わなかったものの元ブラジルサッカー代表のセーザル・サンパイオ氏も晩餐会から参加し、日系社会で表彰される喜びを口にした。
柳森さん、最高齢98歳で受賞=多くの教え子から祝福の握手責め
「ツッパン市で道場の生徒でした。先生、覚えていますか?」――会場で相撲連盟の土屋守雄オスカル会長(68、二世)はそう呼びかけると、柳森優(まさる)さん(98、熊本県)に握手を求めた。50年以上ぶりの子弟の再会だった。他にも、柳森さんの周りには握手を求める人が押し寄せた。
特別賞を受賞した柳森さんは「まさか自分が受賞するとは思わなかった」と喜ぶ。兄の影響で柔道を始め、15歳で初段を取得。36年に渡伯後も、柔道への情熱が薄れることはなかった。
50年にマリパ市で友人と柔道教室を始め「日本人ばかりに70人ほど教えた」。ツッパン市で道場を拡大し、日本語教師と柔道講師の二足わらじを履いた。パラナ州アサイ市で行われたコロニアの全伯柔道大会で3位になり、選手としても活躍。九段まで取得した。
82年には、オザスコ市で柳森柔道道場を創設。柔道講師は82歳まで務め、200人以上の生徒を指導、100人が有段者となった。生徒の中には汎米大会に出場したブラジル人も。
会場では、柔道で受賞したオズワルド・シモエスさんをはじめ日系人、ブラジル人問わず、次から次へと握手を求め、尊敬の念を込めて「先生、おめでとう」と祝福していた。
現役の柔道講師、松堂さん「130歳まで生きて教える」
「自分は130歳まで生きるから、その間に優秀な選手を出したいね」――特別賞を受賞した松堂忠堅さん(84、沖縄県)は、屈託のない笑顔でそう語った。
スザノ市で柔道を教える同氏は、今式典で最高齢の現役柔道講師。現在もブラジル人を中心に、100人の生徒にボランティアで教えている。
柔道を始めたのは17歳。元々運動が得意で、21歳で初段を取得した。58年にボリビアへ移住する時は、柔道の講師に「半年待って3段を取得すれば、どこに住んでも生活できる」と止められたが、松堂さんは「人ではなく、木を倒しに行くから段は必要ない」と一蹴した。
ボリビアでは儲からず、64年にブラジルへ移住。サンパウロ市カーザ・ヴェルデ区で柔道を教え始めた。70年に転住したスザノ市のヴィラ・ウルペス文化体育協会でも指導員を務め、現在に至る。
さらに沖縄県人会では、長らく中断されていた沖縄角力大会を98年に復活させた功労者だ。
会場には、家族や沖縄県人会の役員らが駆けつけ、口々にお祝いの言葉を述べていた。
元セレソンのサンパイオ氏「僕は半分日本人、第二の故郷」
仕事で遅れて晩餐会から参加したセーザル・サンパイオ氏(51)は、会場に到着するなり写真やサインを求める人による列が出来た。快く一人ひとりに笑顔で応える様子に、人の良さを滲ませる。インタビューには、Jリーグで6年間鍛えた日本語で応えた。
サンパイオ氏がプロを志したのは、意外にも17歳の時。「15歳でユースチームの入団テストを受けたが、実は3つのチームで落ちた。やっとサントスFCに入れたから、最初はプロになる自信がなかった」と打ち明ける。徐々にユース内で存在感を出し、18歳でプロ契約となった。
サンパイオ氏が横浜フリューゲルスに移籍したのは95年。その時の心境を「びっくりした。ブラジル人と日本人のサッカーは全然違うからね」と苦笑し、「1年目は言葉の壁も大きくて、一番弱いチームにいたんだ」と決して明るいスタートではなかった。
日本のサッカーについて「国際的なレベルに上がってきた。コパ・アメリカも良かった」と評する。日本のサッカー界で特に面白いと注目しているのは、プレミアムリーグで活躍する吉田麻也選手。「1対1も良い、ヘディングもできる。自分は吉田が好き」と好印象を得た。
現在、ジャパン・ハウス運営委員も務め、日本に関わり続ける理由を「日本人と違う顔をした自分を受け入れてくれた。日伯の関係強化に貢献したい」と語る。
今回の受賞は「誇りに思う。私は日本で食事、上下関係、相手に敬意を示す姿勢等、大事なことを色々と学んだ。僕にとって日本は第二の故郷。自分のことは半分日本人だと思っているよ」と述べ、日本への敬意と深い愛情を示した。