米国の衛星放送及びケーブルテレビの番組供給会社「ヒストリー(History、歴史)」は、ブラジル独自に新シリーズ「Brasil de Imigrantes(移民のブラジル)」を製作し、8月6日夜にサンパウロ市のユダヤ文化センター(UNIBES)で主要登場人物を集めた記念イベントを行った。
同企画には50社の候補が挙げられ、最終的に残ったのは6社。移民の生きざまが与えたブラジル経済発展への影響が様々な分野から6話に渡って語られる。
イタリア系からはパネトーネという祖国の習慣を当地に植え付けたバウドゥッコ家、新しいところではデジタル銀行「Nubank」創立者のコロンビア人移民も入っており、日系からは醤油味噌の最大手メーカー「サクラ中矢」社が選ばれた。
ブラジルにおいて、原住民以外の国民は、全員が移民の子孫だ。しかも古株は500年以内に移住してきたポルトガル系、アフリカ大陸から連れて来られた黒人系であり、それ以外の大半はここ200年と実に新しい。だからこのシリーズ名は、国のほんの一部を新来者が構成することを伺わせる「ブラジルの移民」でなく、移民自体が国の主役である「移民のブラジル」となっている。
しかも国全体に大きな影響を与えてきた、もしくは与えつつある「移民企業家」がこの新シリーズのテーマであり、この国の経済を動かすエンジンもまた移民やその子孫であることを如実に表している。
本来なら12日から放送開始予定だったが、ボルソナロ大統領がANCINE(国立映画局)を首都移転させる新方針を打ち出したために局内が混乱し、保留されている状態だ。放送日が確定し次第、別途伝える。
味噌、醤油をブラジル社会に広めたサクラ中矢
「立派な方々と同列に選んでもらえて、とても誇りに感じる」と中矢レナート健二社長(74、二世)は本紙取材に満足そうな表情を浮かべた。父・末吉氏が1940年にサンパウロ市で醤油・味噌作りを始め、ブラジル社会に日本食を広めた功績が評価された。
醤油メーカーは国内だけで10以上あると言われているが、中矢氏によれば「ニールセン調査では、数ある醤油メーカーの中でうちが市場の75%以上を占めている」というので寡占状態だ。
「我々は元々、コロニア向けの日本食調味料製造会社だった。だが、今では全伯12万カ所でうちの商品が販売され、圧倒的にブラジル人ユーザーの方が多い。それだけ日本食がブラジル社会に受け入れられた。多少は、そのお手伝いができたのではと思う」と語った。
ブラジル製醤油の特徴は、日本のよりも甘味が強く、少しトロリとしていること。日本の刺身醤油に近い。その理由は原料の違いからくる。中矢さんは「日本や北米では一般的に、醤油の原料は大豆、麦、塩、水です。父の時代には麦が入手しづらかったので代わりにトウモロコシを使った。成分にタンパク質が必要だったんです。そのため、トウモロコシが甘味を強めている」という。
そのせいで日本側の一部専門家から、「主要成分が違うから、厳密には『醤油』とは言えない」と指摘されることすらあった。だが、「移民の醤油」はブラジルに定着し、圧倒的なシェアを誇るようになった。
日本製VSブラジル製
当地製で育ったブラジル人消費者の多くは、刺身や寿司にべったりと醤油を付ける習慣がついてしまっている。それを味の濃い日本製の醤油でやると、しょっぱくなりすぎてネタの味を殺してしまう。
そのせいで、最近の高級寿司店ではスプレーや刷毛で、あらかじめ醤油を少しだけぬってから客に出すサービスをする所もある。本物志向の一部ブラジル人には浸透し始めているが、寿司職人の手間がかかるので店側に負担が大きく、客側にしても自分で付けないと「何かもの足りない」と感じる人もいる。
そこでサクラ中矢は「Light」という薄味を出し、べったりつけてもしょっぱくならない製品まで作って日本製に対抗した。そんな醤油業界における日本製対ブラジル製のさや当てが続き、本場製品にも関わらず、なかなか当地では浸透しない部分がある。
中矢氏は「日本製よりも、我々が普段食べている南米の食べ物に合うように調整している。調べてみたら、ヤキソバとかで使うだけでなく、一般家庭で牛肉や鶏肉を醤油で味付けする人が増えている。焼いた時に色がついて、香ばしい匂いもする。中にはご飯にかける人もいるんですよ」とラテン市場で消費が伸びている理由を説明する。
むしろ今では、麦が入っていないためにグルテンフリーである点が、「日本製より健康的」と一部で評価されているという。さらに使用している大豆に関しても「僕らは遺伝子組み換え大豆を使わないので、EUでも受け入れられ、輸出が増えている」という。
「グルテンフリー」とは、小麦などの穀物のタンパク質の主成分であるグルテンを除去した食品のこと。もともとグルテン除去食は小麦アレルギー(食物アレルギー)や代謝不良(グルテン関連障害)等を改善するための食事療法だったが、現在では一部のレストランや食品にも取り入れられている。
「ブラジルの日本食」は移民が手作りした家内製品から出発しているので、最初から南米の現地材料を代替品として使う。その分、「日本の日本食」からは独自の国際化の進化を果たした。その象徴が、日本食に欠かせない醤油だ。
日本食広めるためにブラジル調味料も作る
父・末吉氏は、日本移民の最盛期1932年に愛媛県から移住した。日本では大原流生け花の教師、墓石を作る石材店などもしていたが、昭和不況に押されて移住を決意し、生活のために1940年にサンパウロ市で見よう見まねで醤油作りを始めたという。当時どこの植民地にも味噌や醤油を手作りして売っている人がいた時代だ。競争は激しかった。
父の兄がプレジデンテ・プルデンテで1950年に醤油会社を設立し、そこを1976年に吸収合併して現在のサクラ中矢が生まれた。
生き残った秘訣を聞くと、「父は『良いものを作る』『自分が毎日食べたいものを作る』ことにこだわった人。だから自宅兼工場にして、醸造過程には6カ月かかるが、その間は毎晩、発酵具合を確認するために夜中に2回おきて見回り、麹を混ぜたりしていた。僕も最初の頃は、それをやっていましたよ。子どものころ学校から帰るとすぐに丸大豆の選別を手伝っていました。1990年ぐらいから機械がやってくれるようになりましたが」と笑った。
レナートさんは1944年9月にサンパウロ市で生まれた二世だ。家内制手工業的だった家業を、企業として巨大化させた立役者だ。機械化して量産化を図り、値段を下げて他社を圧倒していった。
他社との違いの一つには73年から始めたピメンタ、ウスターソースの製造販売だという。
「あの頃、醤油と味噌はあくまで日系社会内の消費が中心だったので、全伯的な販売網を作るのが難しかった。そこで全伯で需要があるピメンタとウスターソース(Molho de Ingles)などの生産もはじめ、ブラジル調味料分野に乗り出して商品の多様化を図った。それがすぐにブラジル人に受け入れられ、一時期はこちらの方が大きな売り上げになっていた。おかげで国内隅々まで商品をいきわたらせることができ、味噌、醤油も広まった」との戦略を明かした。
FARCから逃れ、最先端のフィンテック起業
同イベントで起業体験談を語った「Nubank」創立者のコロンビア人移民のダヴィ・ヴェレス氏の生きざまは、まさに現代的だ。「移民の生きざまは赤ちゃんと同じ。移住先の生活は全てが分からないことばかり。質問、質問を重ねて、少しずつこの国の現実を理解していった」。
祖国ではFARC(コロンビア革命軍、反政府左派ゲリラ)や極右組織、麻薬密売人らが跋扈しており、伯父が誘拐されたのを機に家族でコスタリカへ逃げ、米国のシリコンバレーで働き、その後にブラジルへ辿りついた。「外国人移民としてここへ来て、銀行口座を開設するのに苦労した。それなら自分がデジタル銀行を作ろうと決心した」と創業のキッカケを説明した。
Nubankは2013年3月にサンパウロ市で創業したばかり。マスターカードの国際クレジットカードを発行し、250万人が利用するデジタル銀行になった。従業員は1500人、早々にブラジルスタートアップ企業の代表格となり、今ではラ米最大のフィンテックに成長して「世界で最も革新的な企業の一つ」とまで見られている。
「フィンテック」とはFinance(金融)とTechnology(技術)を組み合わせた造語。既存の銀行などが持つ多様な金融サービスのうち、顧客が必要とする一部の機能に特化し、スマートフォンのアプリなどを通して低コストでサービスを提供する。
祖国の文化をブラジルに持ち込んで豊かに
ブラジルに住んでいる者なら、「バウドゥッコ」といえばスーパーに山となって売られているパネトーネを思い出す。カルロス・バウドゥッコ氏はイタリアのトゥリンに1906年に生まれた。子供の頃に手を怪我をして第2次大戦で徴兵されなかった。
終戦直後、彼の信頼する仕事相手の兄弟が、ブラジルでコーヒー農園を経営しており、帰郷した際、カルロス氏に「ブラジルにはパンを作る機械がない」と語った。そこに商機をみたカルロス氏はパン製造機40台を買って、ブラジルに送って件の兄弟に販売してもらうことにした。だが、いつまでたっても「売れた」との連絡がない。
1948年にしびれを切らせてブラジルまで確認にくると、売上金は彼の農場への投資に横流しされ、一部しか回収できなかった。
騙されてがっかりする一方、サンパウロ市には数万人のイタリア人同胞がいるのに、故郷の食文化パネトーネがまったく紹介されてないことに気付き、自分で始めようようと決意した。42歳にして遅咲きの大輪の種をブラジルに蒔こうと決心した。
1950年、イタリアに戻って財産を処分して、妻と子供を連れて移住した。つまり、あの有名なバウドゥッコは、イタリア人戦後移民が作った会社だ。最初は小さなドセリア(スイーツ工房)だったが、1962年にサンパウロ市の隣グアルーリョス市に工場を建設して大量生産を開始してから一気に拡大した。
カルロスさんはそれから10年後の72歳に亡くなるが、一人息子のルイジさんが継ぎ、さらに拡大させて現在に至る。ただし、残念ながらイベント当日には顔を出さなかった。
ベトナム難民から国際的なサンダル会社起業
ベトナム難民だったタイ・ニギア(Thái Nghiã)氏はタイヤの再生工場を立ち上げ、サンダル製造販売会社「Gooc」に発展させた。年間18万足を生産して38カ国に輸出する。「ベトナムは共産主義政権だったから、言論も不自由、経済的な自由さもなかった。そんな中で生活に行きづまった母が自殺し、僕はサイゴンの収容所に入れられた。そこから出た時、迷わずに難民船に乗り込んで国を出た」。
南洋を漂う難民船に気付いて助け上げたのが、たまたまブラジルの貨物船だった。「リオに着いた時の所有物は服と靴、帽子だけ。まったく無一文、家族も親戚どころか友人すら一人もいない。言葉も文化も何も分からないところから始めた」。
古タイヤのリサイクル事業を始め、それを原料にして何か作れないかと頭を絞ったところ、独自ブランドのサンダルを思いついた。リサイクル品だから「エコ・サンダル」だ。環境重視の風潮の後押しをうけて、輸出を拡大し業績を拡大していった。
「でも順風満帆だった訳じゃない。燃えやすい古タイヤだから、工場が火事で全焼したこともある。そして強盗に襲われて4発も撃たれた。首、腹、腿」と撃たれた順々に場所を指さすと、会場からは悲鳴に似た驚きの声があがった。
「実はそのとき『こんな危ないなら、ブラジルからはもう出よう』と思っていた。だけど幸いにして、たった1週間で退院できた。その時、僕は生かされていると思った。それなら事業を続けよう。そう思ったんだ」。
最後に、「確かに何度も『もう止めようか』と思ったけど、『どうぜゼロから始めたから、失うものはない』と開き直ってやってきた」と締めくくり、移民ならではの壮絶な心境を語った。
祖父はナチス強制収容所の生き残り
ポーランド系ユダヤ人で、ブラジル生まれのアレシャンドレ・オストロヴィエッキさんは「祖父はポーランドでナチスに強制収容所に入れられた生き残り。その当時の体験談は良く聞いたが、僕自身はここ生まれのブラジル人」と前置きし、「24歳の時、父が趣味の潜水に出かけたまま帰らなかった。突然、何も知らず会社を引き継ぐことになった僕はとまどった。『バカな息子が継ぐごとになり会社が潰れかかっている』との噂を立てられた。なんでだろうと鏡を見ると、長髪の自分がいた。その時バッサリ切った」との逸話を披露した。
父イスラエルさんが1987年に創立した「Multilaser」社は最初、印刷機の詰め替えインク生産から始め、情報機器分野に進出してタブレット、ペンドライブ、子供向け情報機器を手掛けで成功し、現在の従業員は2500人、2013年の年間売り上げは15億レアルだ。
強盗が父殺害、世界最大のアラブ料理店網創立
ブラジル最大手の国産ファーストフード店チェーン「Habib‘s(ハビビス)」の創立者、ポルトガル人移民アルベルト・サライバ氏は、「会社が潰れそうな厳しい時には、いつも祖国に帰る選択肢が思い浮かんだ。だがいったん帰ったら、もう気持ちの強さ、勢いがなくなると思った。移民のビジネスは初代の勢いが大事」と熱く力説した。
アルベルト氏は1953年6月に、ポルトガル北東部の田舎町ヴェロザに生れた。1歳未満で親に連れられてパラナ州サントアントニオ・ダ・プラチナに移住し、17歳の時に家族でサンパウロ市ブラス区に移り住んだ。
家族でパダリアを経営。「一番つらかったのは、家族で経営するパダリアに強盗が押し入って、父が殺された時。あれで僕の人生は一気に変わった」と驚きの経験を話し始めた。
「ちかくには5軒もライバルのパダリアがあって、競争が激しかった。一度はこのパダリアを捨てて、この道を諦めようと思ったことも。でも、最後には思いなおし、ひざまずいて神に許しを乞い、『これから私はどうすればいいですか』と道を尋ねた。小さな商売ではあったが、ここで僕は経営の基本を全て学んだ」としみじみ語った。
ハビビスは1988年にサンパウロ市ラッパ区の1号店から始めて、現在20州に421店を展開している。従業員は2万2千人、なんと年間6億枚のエスフィーハを販売する。アラブ料理のファーストフードチェーン店としては世界最大。マクドナルド、バーガーキングなどの並み居る国際資本に対抗し、ブラジルの国産チェーン店としても最大になっている。
ブラジルの旧宗主国ポルトガルは、もともと混血が多いことが特徴であり、アフリカ大陸に近いためにアラブ民族が多く移り住んでいる。だから、ポルトガル生まれのアラブ系が、ブラジルで世界最大のアラブ料理チェーン店を経営するという歴史が生まれる。
移民ビジネスが今でもブラジルという国の経済の大きな部分を動かしている。そんなことを実感させるTVシリーズだ。(深)