山田元さんは、日に焼けた細い体を杖で支えながら歩く。ゆっくりと歩く足の両膝関節は間が開き、ひどく曲がっている。「足が曲がったのも無理ないんですよ」と元さんは苦笑する。
「赤ん坊の頃、母親が朝から晩まで自分を背に結わえ付けて畑仕事をしたからだそうです。ブラジル人には『ペルナ トルタ(曲がった脚)』って冷やかされましたよ」。誰かに指さされても「足が曲がってても、ついているから良いだろう」と言い返していた。
脚のように目に見えなくとも、入植当時のアカラ植民地での苦労は記憶に残っている。
入植当初から、経済的苦境とマラリアなどの風土病の猛襲が移住者たちを苦しめた。元さんも例外ではなく、家族全員がマラリアに罹り、40度近くの激しい高熱に襲われた。
入植後に妹すみれを生んだ母スエノは、アカラ植民地で弟允(まこと)、双子の妹和子、弟昭を生んだが、免疫力の弱い子供達は犠牲になりやすかった。
「弟の昭はマラリアで亡くなりました。允も病気で死んだ」。それまでの様子から一転、声が低くぽつりと呟くように語り出した。
「それから妹のすみれ。あの子は事故だった。母と自分でマラリアに罹った弟の允を病院に連れて行っている間に見当たらなくなり、マラクジャの木の下で血まみれになっているのを発見したんです」。
次々と見舞われる苦難。10年で日本へ帰ると決めていた父義一は、退耕者が続出する中、一向に祖国へ戻ろうという素振りを見せなかった。
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「親父はね、そりゃあ厳しかったですよ。軍隊上がりで、上等兵まで務めたそうですから」。元さんは在りし日の父親を思い出したのか苦い顔で笑った。真面目な浄土真宗の門徒で、口数が少なく働き者だったという。
そんな父親が唯一、多目に見てくれたのが野球だった。「いつも頑固な親父が、野球だけはやらせてくれた。僕はトメアスーの野球チームの選手で、ポジションはショート。打撃も良かったんですよ」と得意そうに思い返した。
一方、母スエノの話になった途端、嬉しそうに顔を綻ばせる。「自分の母を自慢するのはおかしいけど」と前置きし、「母はいつも笑顔で社交的な世話好き。ポルトガル語も喋って、ブラジル人との付き合いも良い人でした」と、一家を支える強く明るい女性だった。
そんな母親に悲劇が訪れたのは、1945年9月10日。突然心臓麻痺で倒れ、帰らぬ人となった。(つづく、有馬亜季子記者、一部敬称略)
□関連コラム□大耳小耳
トメアスー移住地の山田元さんに当時のマラリアの恐怖を聞くと、「過去帳見たら分かるけど、マラリアでバタバタ死んでいる」とその猛威を語る。山田家も例外ではなかった。また、病魔に打ち勝った妹すみれだが、唐突に事故で亡くなった。「家に帰ってマラクジャの木の下で『痛い、痛い』と倒れていた血だらけのすみれ。どうしたと聞いても答えられず、やっと医者が来た時は手遅れで翌朝方4時頃に亡くなりました」。すみれの死因は「近くに住んでいた乱暴者の種豚か、留守宅を狙った強盗か。とうとう最後まで分からなかった」と辛そうに顔をしかめる元さんの様子に、初期移民の苦難がにじみ出ていた。