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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(139)

 吉川もこのような情報を手にしていた。到着日とされる9月10日を指を数えてまっていた。軍艦が日本からまっぐすブラジルにくるには20日かかると計算した。邦人社会のなかでは、もうすぐサントスに母国の軍艦が入港するという噂でもちきりだった。使節団を迎えるために手に手に国旗をたずさえて、サンパウロに集まってきた。奥地からやってきた2000人近い日本人で、日系人経営のホテルは満員となった。彼らの間に9月24日午後3時30分に16隻の軍艦がサントスに入港するという情報が流れていたのだ。
 しかし、軍艦は現れなかった。するとリオに入港するという噂が流れ、多数の人間が汽車でリオに向った。やはりリオにも現れなかった。11月17日、出獄し、正式に臣道聯盟の指導者となった吉川中佐は日本使節団の船がこなかった理由をした。
「牢屋をでて、はじめて、思いも寄らない結末を知った。殿下の無限な心の広さにより、ブラジルの国土を動乱に巻き込むのを恐れ、日本とブラジルの高官の間で秘密に平和協定が結ばれ、それで、軍艦が来なかったのだ」

 このような情報にも関わらず、日本が戦争に敗れたことを認める「認識派」とよばれるグループもあった。天皇の終戦詔勅が敗戦を確認させた。ところがこの詔書はブラジルの日系社会にはずいぶん日が経ってから届いたのだ。1945年10月4日、詔書が署名されてからなんと50日も経ってからサンパウロに知らされたのだ。その遅れが熱烈な愛国者である臣道聯盟の会員や信奉者にとって好都合で、混乱を招くもととなった。
 これ以後、このグループの者たちは「勝ち組」、敗戦を信じる者は「負け組」とよばれるようになった。正輝はアララクァーラの仲間やその他臣道聯盟とつながりのある日本人は詔書が会員に届くまでの経過を知り、その内容について疑いをもった。認識派の者たちは詔書がどのような経過でブラジルに住む日本人まで届けられたか証明する必要があると考えたのだ。
 前代未聞のラジオ放送による裕仁天皇の終戦詔勅の朗読のあと、外務大臣はスイスの赤十字社本部に詔書を電報で送った。それがアルゼンチン赤十字社に送られ、そのあと、ブラジル赤十字社に郵送されてきた。ブラジル赤十字社のE・ヘグラー社長は、それを9月29日、カトリック教会日本人担当代理司祭であるサンフランシスコ学園の校長、ギード・デ・トレード神父に郵送させた。
 しかし、日本移民が問題にしたのは詔勅のブラジルの到着経過だけではない。書類は部分により違った言語で書かれていたのだ。日本政府が赤十字社に送った詔勅は英語で、序文はフランス語、詔勅本文は英語で書かれていた。
 これらの仔細な内容まで認識派は調べた。脇山甚作、古谷重綱、宮坂国人、山本喜誉司、蜂谷専一、宮腰千葉太、山下亀一などの認識派グループはサンパウロ警察の承諾を得て、祖国が遭遇している困難な状況についての日本政府の情報をみんなに知らせようとした。
 認識派のメンバーは経済的にも社会的にも日系社会で重要な位置にある人々だった。脇山は退役陸軍大佐で当時、日本人組合の連合会ともいえる産業組合中央会理事長を務めていた。古谷はアルゼンチン及びブラジルの日本全権大使で、サントス─ジュンジアイ線に沿った広大な土地を購入し、そこで、バナナの生産にたずさわっていた。宮坂はブラジル拓殖組合(ブラタク)で働き、南米銀行の創立者のひとりだった。