1946年3月に房子は大きな腹をかかえていた。4歳のツーコ、1歳半のヨシコにつづくまた女児なのだろうか? それとも、正輝が望んでいる男の子だろうか? その月の7日、正輝はジャカランダのデーブルの前にこしかけ、妻や子どもたちをよんで、長いこと弾いていなかった三線をひくことにした。
日系社会に騒動がおき、家にいる時間ができたので、その間に、時間をかけて自分で作った三線だ。材料には三線にてきしたコショウボクを選んだ。硬い木で削るには苦労したが、長持ちする。まず、木を板にし、三線の形に1ミリ、1ミリ削っていった。
渡伯してから30年間、サンマルチーニョ農場以来、必要に応じて大工作業をつづけてきた。大工道具はのみ、のこぎり、やすりの他、どこのうちにもおいてある必需品のペンチ、金槌などだ。紙やすりは必要に応じ、町に買いにいった。農作業で荒れた豆だらけの手でいろいろな大工作業をやってのけた。
次男のアキミツはいつも注意深く父親の仕事を観察していた。正輝の仕事はていねいだった。共鳴胴用の板は幅広く、弾き手が左手で支えるところは細長い板、そしてその先の線をしめるネジのところは巾を少しひろめ三線の形をみごとに作り上げた。木肌をのこし、ペンキもニスも塗らなかった。また、共鳴胴には農園のなかでみつけて殺した蛇の皮を張った。
ネナが用意した夕食をすませ、家族はいっしょに三線を聴いた。腹が少し大きくなった房子はヨシコを抱いた正輝の左にかけた。長男のニーチャンは右にすわり、アキミツ、セーキ、ミーチ、ツーコたちは適当にジャカランダのテーブルの周りにかけた。正輝がビールを飲みたがるほど、特別暑い夜だった。
三線を見事にひいたのはもちろんだか、正輝は満たされた思いだった。自分の手で作った三線の独特の音色。一日の仕事をおえ、妻や子どもたちに囲まれてひく三線。おさえ切れない感動のうちに三線をひく、祝日のような楽しい夜だったが、いつもの習慣で、8時半過ぎたころみんな部屋にもどった。
正輝一家が眠りについたころ、そこから何百キロか離れたバストスで、1月ごろから臣道聯盟によって盛んに取沙汰されていた悲惨な事件が起きた。
バストスはブラシルでいちばん日本人が集中して住んでいるところだ。警察によれば、1942年には人口1万5000、そのうち1万2000人が日本人だった。487人の小学生のうち、387人は日本人の子弟だった。臣道聯盟の影響が強く、そのため、町のほとんどの人が勝ち組だった。それが警察署長ルイス・ベルナルド・デ・ゴドイ・エ・ヴァスコンセロの感情を刺激していた。彼は1945年9月26日、サンパウロの第5警察の次局長に日本人に対する詳しい趣意書を送っている。
「当市人口の最大数をしめる日本人たち(子孫をふくめて市民の85%)は祖国の勝利の噂に有頂天となっている。「勝利の日」確認の通知(10月16日と予測される)を受け次第、掲げるための旗(すでに当局では2本の旗を押収した)を製作している。この問題の解決法はただ一つ。これら黄色い臣民とその子孫を国外追放するのみ。確実に当市は日本人の市と化している」