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名言・名句から学ぶ=病人の見舞い方=病との闘い方 サンパウロ市ヴィラ・カロン在住 毛利律子

孔子・危篤の弟子を
   見舞って詠う

【斯(こ)の人にして斯の疾(やまい)有り】
(お前ほどの優れた者が、どうしてこんな病気に罹るのだろうか)

湯島聖堂にある孔子像(あばさー [Public domain])

 この言葉は、孔子が、 孔門十哲の一人、冉 伯牛を見舞った時に詠んだという。伯牛は傑出して人品優れていたが、身体が弱く、もっとも忌み嫌われていたライ病に罹っていた。
 病床に臥す伯牛の危篤の報せを受けて見舞った孔子の様子を見た他の弟子が次のように認めた。「伯牛、疾有り。子、これを問う。扁よりその手を執りて曰く、これを亡ぼせり、命なるかな。斯の人にして斯の疾あるや」と。
(現代語ー「伯牛がとんでもない病に罹ってしまった。先生は彼を見舞い、窓からその手を取って仰った。ああおしまいだ。なんという運命なのか。こんなに人品優れ徳の高い人が、こんな病に罹ってしまうとは…)」
 この情景描写が非常に印象深いのは、孔子が窓越しに死の床に臥す弟子の手を握り、その無念さを共感しつつ、共に病苦を嘆き悲しんでいることである。
 想像するに孔子は、ライ病で崩れた愛弟子の顔を見るのは耐えがたかったのではないか。また伯牛も師匠にこのような自分の姿を見られたくないと思っていたに違いない。孔子はきっと弟子のその思いを察して、気遣って、窓から手を差し伸べたのであろう。
 「品行方正で卓越した才能に恵まれていたお前が、なぜよりによってこのような病に罹って死に絶えようとしているのであろうか。運命はこれほどまでに過酷なものか」と、当時は治療の手段もなく病苦にあがきながら死にゆく弟子の手を握ることしかできなかった、孔子の悲嘆、口惜しさ、深い憐れみの想いが伝わってくる言葉である。
 孔子はさらに、「乗り越えられない試練を天は与えるはずがない」と呼びかけたとも伝えられている。
 誰しも単純に、「天は徳を積むものには福を、悪行を重ねるものにはその報いを与える」と考える。それゆえに、自分自身が思いもかけない不治の病に罹ったときには、「なんで私が…。何も悪いことをしていないのに」と必ず思い嘆くに違いない。
 家族、友人、知人が悲運に見舞われたときに、痛感するのはまさにこの言葉であろう。
 孔子の膨大な章句のなかでも特にこの見舞いの言葉、その振る舞いは、何時の時代にも古びない最高の慰みとして心に響くが、それは、実に孔子の70余年の苦難と葛藤の人生から生まれたものであったという。

苦難の連続だった孔子の生涯

 日本人の思想に大きな影響を与えた孔子の『論語』は、「子曰く…」と始まる孔子と弟子の問答集である。その中でも特に有名な章句は、「孔子のたまわく、私は十五歳のとき聖人を習得する学を志した。三十歳になったとき、精神的にも経済的にも独立することができた。四十歳で自分の人生に惑いがなくなった。五十歳で天命を与えられたことを自覚した。六十歳となり何を聞いても抵抗感も驚きもなくなった。七十歳となってからは、心のままに言動しても、決して道徳的規範を外れることはなくなった」。
 なんと見事に、模範的な人生の軌跡の全体を記述している言葉であろうか。
 孔子は戦争や疫病にも遭遇せず、ストレスなども少なかったがゆえに、このように健康で満足した人生を生きられたのであろうかと想うと、ところがその人生たるや、波乱万丈の長い苦難の一生であった。
 孔子は、今からおよそ2500年以上も前の時代、紀元前551年に生まれ、74歳で亡くなったと記録されている。父69歳の貧しい農民。母15歳の巫女。父には先妻との間に一男九女がいた。身長は2メートルほどの長身で、高い理性とカリスマ性を備え、3千人の弟子を育成した。
 貧しさから抜け出すために勉学に励み、一介の下級役人から徐々に出世して政界入りする。そのころからすでに弟子がいて、優秀な弟子によって暮らしが支えられた。50代は絶頂期であったが、政治で失脚し、56歳で13年にも及ぶ放浪の旅が始まる。
 放浪中に立ち寄った諸国で、弟子たちが官僚として登用されるなか、69歳で祖国に戻ったものの政界に取り入れられなかった。弟子たちが孔子学校を各地に広げたことで、その数3千人に及んだ。70歳の時に、50歳の一人息子が亡くなり、続いて有望な弟子が次々と亡くなっていく。充実し穏やかであったのは死ぬ前のわずか一年だけだったという。
 このように、50歳代から晩年までの苦難の連続が、人生の本質を語る言行録『論語』を生んだ所以と伝えられている。

ジャーナリスト魂・
自分の癌を取材する

 現在、超高齢化社会の日本では、「2人に1人が癌になり、3人に1人が癌で死亡する」といわれている。「癌」とは、正常な細胞の遺伝子が傷つくなどして発生した異常な細胞で、こうした細胞の変異は、誰の体内でも、毎日何千という単位で起きていると考えられている。
 通常は、免疫細胞が、常に異常細胞を排除しているので、大事に至ることはない。だが、癌細胞のなかには、免疫細胞の攻撃をすり抜けて生き残ってしまうものがいる。現在、画像検査などで発見できる癌の最少サイズは約1センチ。そこまでに成長するには少なくとも十年以上もの歳月をかけて、目に見える大きさになったものが癌である。
 それでは、もし自分が癌に罹ったとき、どの様に癌に向き合い、闘病の日々を過ごしたらよいのであろうか。
 「自分は只の癌患者にはならない」と病と正面から立ち向かい、癌闘病処世術を教えてくれた人物二人を紹介しよう。

鳥越俊太郎。2006年2月2日に東京の早稲田大学にて撮影(Shacho0822)

 ジャーナリストの鳥越俊太郎氏は2005年に大腸癌の手術を受けた。その後、肺に転移して再手術し、最終的に2009年に肝臓に転移した癌を切る手術をした。次々と続く手術と闘いながら想ったことは、自分がジャーナリストであったことが一番良かったということだった。癌になって初めて知ったこと、理解したこと、次に何が起きるかも全部分かる。癌になるとどんな心理状態になり、家族は何を想い、友人や知人はどう見舞ってくれるか。そういうことを全て体験できる。
 新聞記者時代に、何度も戦地に取材に言ったが、弾に当たらず、地雷も踏むことはなかった。2004年にイラクから無事帰ってきたが、その時に大腸癌が見つかり手術をすることになった。そこで、鳥越氏は検査時から自分の癌を目撃して、つぶさに記録した。手術中はテレビ番組のディレクターに撮影してもらい、自分でも映像記録とメモ記録を作成した。
 つまり、癌になり、手術を受け、治療を続けていくという辛いプロセスを生きている患者の自分と、自分を観察し、取材する二人の鳥越氏がいて、常に取材者の目線でみるので、面白くワクワク、ドキドキしながら、辛い治療を続けることが出来たと述べている。


壮絶な癌闘病を
   作句して過ごす

江國滋『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒―江國滋闘病日記』(角川文庫、1999年)

 もう一人。癌との闘いには敗れたものの、その間の心の動きを俳句にして遺したのは、随筆家で俳人の江國滋であった。
 闘病記は一般に、病後に本人が、あるいは家族によって書かれたり、回想することから多少の見当違いや、周囲との関係による配慮、美談などが綴られることがある。
 一方、この闘病日記は日付が記され、患者本人が状況を綴る。そこには患者と医師の生々しいやり取りが綴られるので、何気なく発する医師の一言が、患者にどのような衝撃となって伝わるかを、医療者が学ぶことができる「患者心理学」の要素を含むと言われる。
 さて、江國の癌闘病のはじまりは、内視鏡検査で発覚した食道癌の告知を受けるところからであった。担当の医師は「高見順です(同じ食道癌で亡くなった作家)」と宣告する。「は?」と反射的に聴き返すと、再度、「高見順です。食道癌です」とあっさり告知するのであった。江國はあっという間に癌患者となった。ショックというより、茫然自失する。
 その患者に対して、「こんなときで何ですが…」と言いながら、江國の初版本にサインを依頼するこの担当医師。「サインペンと筆ペンどっちがいいですか」とまで言う。江國の頭の中はまっしろ状態。それでもあたらしい句は思い浮かばず、昔の「ものの芽やひとにやさしくしたくなり」と認める。
 癌を告知されて放心状態の江國に、担当医師本人がサインを求めるというのは、どういう神経の持ち主なのだろうか。日頃から多くの癌患者に接していて、慣れっこになっちゃったということか。江國も、長年の習慣から、頼まれると即興の句を詠じようとするのか。
 ともかくも、江國の闘病が始まった。そして、途方に暮れながらも、「このままで死ねるものか」と、結核に斃れた正岡子規、石田波郷といった「療養俳句」の先達を目指すことで、なんとか気持ちを支えるのである。

残寒やこの俺がこの俺が癌

 10時間に及ぶ大手術のあと、術後肺炎を併発し、一時は危険な状態となる。―手術終了後、麻酔から覚めしときの痛苦を歌った―

春の闇 阿鼻叫喚の記憶あり

 一カ月後の再手術。食道結腸再縫合手術のあと、彼の枕元に病院会計から請求書が届く。一カ月の医療費175万円の請求書を受け取って詠んだ句。

余寒の夜考えてゐる銭のこと

 術後50日で水を飲めるようになる。流動食も始まる。しかし再縫合が必要と言われ落胆。

春の闇どう考えても苦あれば苦

 傷口の回復の見通しが立たない中、癌は右肩腕、首のリンパ節に転移していた。その患部に対する放射線治療が始まると宣告される中で句を詠む。

六月や生よりも死が近くなり

 4度目の手術の後、入院5カ月目にして外泊の許可が下りた。

四万五千日いのちかみしめ外泊す

 7月17日、江國は日本橋で行われた「東京やなぎ句会」で、痛みと声のかすれに苦しみながら、聴衆に闘病生活を語り、作句を披露したという。
 8月8日、いよいよ最後が近づいていると感じて、辞世の句を詠む。

敗北宣言「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」

 そして、1997年8月10日、5カ月の激烈な闘病生活の後に、62歳の人生を閉じた。 
 家族、愉快な友人に恵まれ、何といっても俳句という文学に支えられた江國の闘病生活。彼の闘病の日々は、その時の状況をつぶさに日記に書き残し、作句し続けた。遺された印象的ないずれの句にも、「歌って苦しみ飛ばそうじゃないか」と読者を誘うような、江國の励ましにも似た慰みが感じられる。
 病は「生」の一つの形態である。生きているからこそ病気になり、その病と直面し、闘って生きなければならない。病はいつも人間に「生き方」を問う。
 病苦から生まれた数多くの名作・名言・名句は、見舞う者、病人が闘病から見つけた尊い生き方を教えてくれている。
【参考文献】
★『孔子の一生と論語』2007年・緑川佑介、明治書院
★日本医学ジャーナリスト協会、合本6
★『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒―江國滋闘病日記』2000年