入植当初からマラリアなど風土病に悩まされたトメアスーの歴史は、病院なしには語れない。
「アカラ植民地では、その諸経費中の五〇%が、病院、衛生費であった時もあり罹病率八〇%に達し、植民者の事業計画を根底よりくつがえした」(『トメアスー開拓70周年記念誌』99頁)。
トメアスー文化農業振興協会会館の隣りには、マラリア対策の一つとして1936年に約4カ月間臨時休養所となった橋爪会館の跡地がある。今は何も使われていない廃墟だが、当時は医師が毎日往診し、収容患者数106人、1人平均16日余も入所したという。
その後マラリア撲滅が徹底的に行われ、州立病院も建設されるなど保健衛生を保つ努力が行われてきた。64年には、第二トメアスー事業所敷地内に診療所が設置され、67年には病院体系が整った。
82年、ジャミック(現JICA)撤退にあたりアマゾニア日伯援護協会に同診療所が業務委託され、名前を「トメアスーアマゾニア病院」に改称し再出発した。
この創立されたばかりのトメアスーアマゾニア病院で事務長を勤めたのが、松崎康昭さん(68、福島県)だ。松崎さんは5歳で渡伯し、ジャミックに勤めた後に事務長として働いた。現在は援協の理事を務める。
「これが当時の写真ですよ」。松崎さんによって丁寧にアルバムに収められた写真の上には、「1982年4月17日(木) JAMICより日伯アマゾニア援護協会の病院に! トメアスーアマゾニア病院開所式」と書かれている。
しかしトメアスー第二移住地の過疎化などの問題や地元住民の強い希望もあり移転が決定し、87年にはクアトロ・ボッカス区に新病院建設工事が着工した。この建設資金の60%はトメアスーの住民からの寄付によるもので、残りは援協が負担した。
こうして88年1月20日に開院式が行われたのが、現在の「十字路アマゾニア病院」だ。文協からから5分もかからない場所に位置する好立地。取材日には、非日系人を中心に朝早くから患者が診察を待っていた。
同病院は、昨年1月20日に30周年を迎えた。30周年式典はトメアスー在住の援協会員約120家族を招待し、文協会館で盛大に祝った。当日は病院に貢献した人の表彰も行われている。
トメアスーの医療分野を支えてきた同病院だが、松崎さんは90周年を迎えての経営状況について「厳しい。2010年までは黒字だったが、以降は少し赤字が出始めた」と語る。トメアスーで唯一緊急ヘリコプターでベレンまで搬送するシステムを持ち、維持が望まれているものの、かなりの経費がかかる。
「患者から求められる24間体制を維持するためには、国の規定により8人の医者、8人の看護士を置く必要がある。さらに職員も雇うと経費がかかる上に、患者も減ってきている。でも病院は売り込みの宣伝ができないので収入もなかなか上がらない」。
病院経営の性質の問題もある。松崎さんは、「病院には有名な医者と最新の医療機材が必要だが、それに対するコストもかかる。今はベレンの援協本部による医者の派遣や、日本政府の草の根・人間安全保障無償資金協力によって医療機材を導入しているが、他にも手を考えなければ」と身を引き締めた。トメアスー唯一の日系病院として、今後の生き残りを模索している。(つづく、有馬亜季子記者)