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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(144)

 憤激は頂点に達し、これを機に問題解決の実行にでた。サンパウロの上司にこの通告をおくった二日目、バストスの警察署長は市の日本人に対してさらに厳しい規定を実施した。公共施設、その他商店、事務所においての日本語使用を禁止し、許可なくして個人の家での集会やスポーツの禁止、また、うわさを流す者をきつく罰した。禁止より最悪なのは彼の弁明、とくに、その言葉使いだった。

「当警察署は敗戦後、たえがたい敗北を喫した日本臣民に対し、好意的ともいえる穏やかな処置をとってきた。その寛大さにより政府は彼らを決して敵として扱わず、人間的扱をした。ところが、こちらの忍耐に乗じて、そのことが理解されることはなかった」

 臣道聯盟が引き起こした最初の殺害事件は、このバストスで起きた。
 1946年3月7日、夜11時30分ごろ、バストス産業組合専務理事の溝部幾太が暗殺された。訪問客を送り、家の後ろの便所から背を向けて出ようとしたとき、至近距離で撃たれた。弾は左肺動脈に当たり即死だった。
 多くの人間が検挙されたが、そのなかにバストス臣道聯盟の何人かがいた。溝部暗殺の一週間後、警察の指令により連盟の支部は閉鎖された。検挙された者は刑務所に入れられたが、そのあと、アンシェッタ島の牢獄に送られ、何ヵ月も保留された。犯人の山本さとるは犯行後、14ヵ月もたってから他の保留者の苦しみを目にし自供におよんだ。
 山本の人生は多くの移民と同じようなものだった。14歳で渡伯し、農業のあと、トラックの運転手をし、また農業に戻った。しかし大和魂にかられて、敵の生活に役立つ米や棉の栽培を拒否し、野菜を栽培し、それを自分で売る行商をしていた。戦争が終ると勝ち組の実践者となった。組合の溝部氏が指揮をとる理事会が発表した日本敗戦のニュースに憤慨した。勝ち組の仲間たちと「溝部こそ国賊だ」といいあった。また、溝部さえいなくなったら、バストスの状況は100%よくなると仲間にもらしていた。
 警察は得体の知れない連盟が関係する事件だが、ごく普通の出来事だと解釈した。だが、その考えはあまかった。後につづく驚くべき事件のさきがけだったのだ。
 警察は吉川順治が釈放される少し前の1945年10月から臣道聯盟という日本人の秘密組織が存在することを把握していた。だが、犯人が組織と結びつく証拠がなかった。これらの情報はマウアー市の移民、新城へきゅうの活動を調査中に浮かび上がらせた。彼らは東京放送と臣道聯盟出版の旭新報から得たというの日本勝利の情報を日系人に流していた。1946年1月31日、警察により根来の家で連盟の集会がなされていたことを確かめるため家宅捜索が行われた。
 そのとき、地図、日本語の原稿、会員から集めたと思われる現金が押収された。警察捜査本部が設けられ、その捜査中、秘密組織の存在や不法行為に関する情報の証拠書類が発見された。そのなかに同胞に日本の敗戦を伝える者たちへの脅迫状も含まれていた。彼らが国の敵、国賊とみなす名前のリストがあり、それには認識組グループが日本人に事実を伝えるために作成した書類の署名者のひとり、古谷重綱の名があった。根来良太郎を含めた何人かが検挙された。皮肉なことに捕まった者たちを釈放しようと、会員たちは古谷に助けを求めたが、断られた。