オゾーリオ書記官により作成されたリストによると、ジョアン・カルロス・ネットとエリオ・パソッチが、臣道聯盟の幹部根来良太郎、佐藤正信、木村貞二、塩塚金吉ら立ち会いのもとに行った没収物は包装27個にもなった。
最初の包には日本国旗6枚、2番目には日本の小国旗7枚、3番目にはいろいろなアルバム、4番目には臣道聯盟の理事たちの写真、5番目には軍用品工場と日本降伏の偽造写真、6番目には臣道聯盟本部の母国崇拝の祭壇の写真と、アメリカ戦艦ミズーリの偽造写真、7番目には敗戦の偽造の写真コピー、そこには日本人のサインが一番上にあった。8番目には太平洋諸島を占領した当時使用された日本紙幣の写真コピー、日本の政治家と表札の写真、9番目には雑多な写真、10番目には日本語で書かれた書類9冊のファイル、11番目には同じく日本語で書かれた書類とメモ手帳、12番目には原稿と手紙、日本語の印刷物、13番目には日本語による原稿と書類、14番目には臣道聯盟支部の所在地が印されたサンパウロ州の地図、15、16番目には日本語の本、手帳、印刷物、17番目にはいろいろな日本人の写真、2冊のメモ手帳、日本語で書かれた手紙、18番目には日程表と日本語の手紙、19番目には3本の臣道聯盟の認印、20番目には日本語の手紙と日程表、21番目には臣道聯盟の会員たちの証書、日本語で書かれた書類、22番目には熱狂的国粋主義者が天から下られた天皇の子孫と信じる裕仁天皇の写真3枚、23番目には本一冊、日本語で書かれた手帳3冊、24番目には日本語で書かれた原稿と手紙、25番目には木に書かれた臣道聯盟の紋章「臣」(この漢字は臣民を表す)、26番目には日本語で書かれた2枚の表札、27番目には絹の紋章と日本の国旗が入っていた。
その日の夜、中央市場付近やリベルダーデの下宿屋で、何十人かの日本移民が検挙された。いちばん初めに警察に摘発されたのはバロン・デ・ドゥプラッテ街119番にある吉廻文吾所有の「ペンソン・クルゼイロ」だった。
また、同街にあるフジマ・ホテルと、仲村渠ホテルにも警察の手が入った。そばのパジェー街のプラザ・ホテルにも現れた。リベルダーデのホテルのうち、谷口ミルトン、九州、新潟、山田ホテルと水本三明の下宿が調べを受けた。その他アウロラ街、ジョン・メンデス広場、ブリガデイロ・ルイース・アントニオ大通りの宿屋も警察の摘発を受けた。
検挙された者のなかに臣道聯盟の会員もいたが、何の関係もない者もいた。ちょうど検挙のおり、サンパウロにきていて、偶然それらのホテルや下宿屋に寄宿しただけの者だった。調書にあるとおり、商店の主人、農業者、下宿屋の主人、写真屋、床屋、野菜業者、学生、商人といった人たちで、サンパウロに書類を調達するためにやってきたり、品物を売買するために泊っていた人たちだった。ほとんどの人は運悪く、とんでもない場所と時間に居合わせたことになる。
確実なのは警察が1946年3月から調査した臣道聯盟の50支部の指導者、357人のリストだ。本部で接収した包みのなかにあった名前とリストの名前を照らし合わせることができたのだ。そして、これらの人たちの逮捕状が奥地の警察に配送された。