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ドラマのような「モジ開植の祖」の生涯

斉藤マリオさん

 モジ・ダス・クルーゼス入植100周年式典を取材に行って、「灯台下暗し」だったと反省した。興味深い移民史の宝庫だ。サンパウロ市から東に62キロの地点にあるモジ市は、100年前にはわずか3万人の寂しい農村だった。現在では44万人超の人口に増え、州内12位の人口を誇る堂々たる近郊都市となった。
 2008年時、安部順二モジ市長(当時)は《モジ市の人口約37万人で、日系人口は約3万人》と言っていた。今なら4万人でもおかしくない。サンパウロ市以外の地方都市としては、全伯有数の多さだ。そこへの日本人初入植は1919年9月で、コクエラ植民地だ。
 ちなみに1908年6月の第1回移民船笠戸丸到着から始まり、「日本移民最初の土地所有」は1911年2月にソロカバナ線のモンソン第1連邦植民地に入った5家族だと言われる。「本格的な独自の植民地建設」による入植開始は1913年11月、東京シンジケートによる桂植民地が嚆矢だ。
 その後、レジストロ植民地、コチア植民地、東京植民地と続き、1915年8月から有名な平野植民地建設、ビリグイ入植、ジュキア線のセードロ駅入植、サンパウロ市郊外エメボイ開拓などとなる。
 翌16年にリンス入植、17年に星名謙一郎によるブレジョン植民地売り出し開始、18年に上塚第一植民地(プロミッソン)創立までが、笠戸丸から10年間の日本人入植の主だった流れだ。ここが「開拓最前線」だった。
 ここから先は、数えきれないほどの植民地がジュキア、ノロエステ、ソロカバナ、パウリスタ、パウリスタ延長各鉄道沿線に建設される流れになる。

奥地で風土病に悩み、健康地を求めてモジへ

 2008年の日本移民百周年から今まで、次々に各地で100周年行事が開催されてきた。モジが興味深いのは、上塚周平とか平野運平のような植民地建設呼びかけ人がおらず、自然発生的に集まってきたことだ。
 コクエラ生まれで現在も住み続ける斉藤マリオさん(87、二世)にその疑問点を尋ねると、「奥地に入った人たちはマラリアにやられて苦労した。そんな人たちに高岡仙太郎医師らが『モジはマラリアがない健康地で、気候が良い所だから、あそこへ移ったらいい』と薦めたので大挙して移って来たんです。平均気温は23度で暑くもなし寒くもなし。宣伝もしないのに、どんどん集まって来た」と説明してくれ、疑問は氷解した。
 「開拓最前線」で傷ついた移民たちが、身体をいたわりながら農業を続ける場所として選んだのが、モジを始めとするアウト・チエテ地方だった。
 斎藤さんの父正雄さんは1929年渡伯。「同船者にたまたまモジで成功した再渡航者がいた。彼からさんざ良い話を聞かされていた。最初の1年間は契約でベベドウロのコーヒー耕地に入ったけど、契約を終えて30年にコクエラに転住して、32年にボクが生まれた。あの頃、なにも無くて皆苦労したんだよ」と思い出す。
 「父は野菜を作って、モジの町にあるメルカード(市場)まで売りに行った。馬で荷車をひいて3時間もかかった。5年目に土地を買った。そこにボクは今でも住んでいる」。戦争中も警察から隠れて日本語教育が行われたという。「おかげで今でも邦字紙を読んでいるよ」と笑った。
 入植から半年間で80人もがマラリアで斃れた平野植民地に代表されるように、サンパウロ州奥地における日本移民の最大の敵は風土病だった。予防注射が普及した今ですら、蚊などが媒介する伝染病の患者はノロエステ地方に圧倒的に多い。まして100年前は…。
 以前、ノロエステ地方のリンス西本願寺で過去帳を見せてもらった。1920年から23年までの4年間にリンス管内では141人の邦人が無くなっているが、うち5歳以下がなんと109人を占める。77%、4人に3人が5歳以下で亡くなっている。それだけ、医療環境が整っていないところで、栄養失調や風土病と戦って亡くなった「幼い開拓戦士」が多かった。
 リンス管内だけでそれだけいた。笠戸丸からの10年間に風土病で亡くなった人の数はとにかく多かった。特に生まれたばかりの赤ん坊の死者の数は驚異的だ。あまりのひどさに、ようやくブラジル移民組合が重い腰を上げて18年に、医学博士・宮島幹之助を日本から呼び、移民の衛生状態を調査させた。宮島は当時、日本を代表するツツガムシ、マラリア、日本住血吸虫、ワイル病などの研究者で、北里研究所の初代寄生虫部長となった。
 5年後の1923年11月、ロックフェラー財団の黄熱病撲滅計画の一環として野口英世がブラジルに派遣されて4カ月間調査した。そのように南米の感染症は世界的に知られていたが、対策もないまま日本移民はどんどん送り込まれた。
 50周年だった1969年当時、『拓魂永遠に輝く』(モジ五十年祭典委員会、1971年)の邦人分布図によればモジ市全体で2444家族もいる。2444家族が平均5人だったとすれば約1万2千人だ。
 当時はモジ市だけで日系団体は20を数えた。うちセントロの「モジ中央」が1039家族とずばぬけて多いが、バイロ(農村部)では343家族のコクエラが断トツだ。ちなみに今は7団体程度しか残っていない。
 つまり、モジに続々と集まって来たのは、マラリアなどの風土病に苦労して命からがら逃げてきた人がそれだけ多かった証拠といえる。

華やかな北米生活後に渡伯した「モジ開植の祖」

手前が鈴木マリオさん、奥が妻の波奈子さん

 100周年式典会場にいた、「モジ開植の祖」鈴木重利さんの三男マリオさん(95、二世)に子供時代の話を聞いた。
 「うちの家族はコクエラでは墓地のすぐ裏に住んでいたから、お父さんに会いにくる人はみな墓地を目印に、モジの町から10キロ歩いて来た。最初の頃の道は登り下りが酷くてね、牛とか手押し車でしか荷物を運べなかった。農産物を作っても町のメルカードまで運ぶのが大変。ブラジル人は野菜を食べないから食べ方から教えた」という。
 マリオさんから「父は渡伯前に、米国に農業留学していた」という。妻の波奈子さん(はなこ、85、二世)から「モジ50年史にでているよわ」と教えてもらったので、『拓魂永遠に輝く』(33P)を紐解くと詳しく書かれていた。
 秋田県立農業高校を卒業した重利さんは、北米で農業を営む叔父が帰日した機会に、同行して北米へ渡った。1900年頃に農業高校へ進学して北米へ渡ったという経歴だけ聞いても、裕福な農家に生まれたのではないかと推測できる。
 《北米では、叔父の家の家族として農業に従事するかたわらセールスマンとなって、ロス、サンフランシスコの大都会をはじめ、カリフォルニアの日系農園を行脚した。帰国後現在のふじえ夫人と結婚、十数年農業に従事、二人の子供をもうけて一見平和な家庭におさまったものの、鈴木の心は遠く海外の夢を追っていた。数年間の華やかな北米生活と内地の農業の差、それに狭い日本の因習が常に重く覆いかぶさっていた》(同33P)
 北米で華やかな大規模農業を学んだ重利さんは、秋田においても将来有望な若者として見られていたに違いない。もしも移住していなければ秋田県で一角の人物になっていただろう。だが本人の目には、ふるさとの狭い田畑には夢が持てなかった。

配耕先で農園主と対立、ドイツ人に助けられる

着伯当時の鈴木重利夫妻『拓魂永遠に輝く』(34P)

 鈴木重利夫妻と実弟、実妹、弟の友だち5人の構成家族で、1919年3月にサヌキ丸で渡伯した。最初はモジ市近郊のサバウーナのコシット耕地に配耕されたが、翌月から給与が滞り、主食の米も注文通りに届かなくなり、《(農場主は)次第に乱暴になっていった(中略)この耕地への希望もなく、主人と雇人との間に沈黙の闘争が展開することになった》(同34P)。
 たまたま知り合った黒人の運搬人から、街道の先に住むドイツ人農場主が親切だと教えられた。そのドイツ人とモジの町で偶然出会った折り、話してみると英語が通じた。北米仕込みの英語が役に立った。《そんなに困っているなら俺の耕地へ来い》とドイツ人は助け船を出してくれた。
 闇夜の一晩を選び、知り合いの黒人の牛車に荷物を積んで、家族は徒歩で5時間かかってドイツ人耕地まで逃げた。農場主はカルロス・ステンベルグという。鈴木家にブラジルで最初に生れた子供には、地主の好意を忘れないという意味でカルロスと名付けた。そこでバタタ栽培で成功し、鈴木家の存在は地域で知られるようになっていった。

日本に子供二人、「必ず迎えに来る」と約束

 マリオさんから「兄弟はブラジルに5人だが、実は日本にも2人いる」と聞き、おどろいた。
 重利一家のブラジル移住計画に、秋田の親族一同は大反対をして説得を試みた。だが、本人の固い決心は翻らないので、親族は苦肉の策として条件を付けた。「お前達がそれほどまでに希望するならブラジル行きを許そう。だが子ども二人は置いていけ。子どもが可愛いか、ブラジル行きが大切か、二つに一つの道を選べ」と難題を出した。
 親族としてはブラジル行きを諦めさせる方便として条件を付けた。だが重利さんは「5年目には必ず成功して迎えに来る」と決意を変えない。
 《長男は四歳、次男は五十三日目の春を迎えたばかりで大人の世界を知るにはあまりにも幼かった。「泣き叫ぶ幼児を膝に乳をふくませる妻の姿に、鈴木は幾度か自分の行動に疑問を持った」と後年彼は妻に語ったそうだ》(同33頁)
 夫の固い決意に、妻ふじえさんも泣く泣く子供を置いて共に渡伯した。

突然の病没、半世紀ぶりに再訪日した未亡人

 鈴木家が入植して2年後の1921年、コクエラ植民地開拓の先発隊が視察に来た。重利一家が成功している様子を見て、後続者が次々に入ってくるようになった。
 ところが1933年6月5日、重利さんは流行性感冒で亡くなった。45歳の働き盛りだった。そのため9歳だったマリオさんは学校を辞めて働くことになった。《彼はこの子どもたち(日本に置いてきた2人)との再会にも恵まれず、遠いブラジルの僻地で夜明けを待たずに逝ってしまった。痛恨の限りである》(同33頁)
 「5年したら子供を迎えに行く」と信じていたふじえ未亡人は、ブラジルで生まれた5人の幼児を抱えて途方にくれた。
 マリオさんも「あの頃、電気もない時代だから刺身や寿司なんて食べたことなかった。一番のごちそうはカルネ・セッカ(干し肉)。お母さんはうちで味噌や醤油も作っていた。美味しかったよ。でもお父さんが死んで母さんは苦労した。その上、度々泥棒にも入られた。お金は元々なかったけど、家財道具を持っていかれ生活が大変だった」と思い出す。

74歳時の鈴木ふじえ未亡人『拓魂永遠に輝く』(35P)

 農場は借財のために競売に出されてしまい、ふじえ未亡人は別の小さな土地を買って糊口をしのぎながら子供を育てた。《三十八歳の若い母に何度も再婚の話が持ち込まれたものだ。しかし亡夫の遺志を思えば、自分だけの幸を求めることもできない典型的な日本婦人であった。数奇な運命と理想をかけたブラジルの生活、その中に安らぎを求めようとする哀しい姿をしみじみと考え、一つ床に眠る子どもたちを眺めてさめざめと涙する日が続いた》(同35頁)
 その後、子どもたちは無事に育ち、マリオさんはモジの町にでて時計金属店を開いた。ふじえさんは《六八年訪日、渡伯前に残した二児と対面、帰伯亡夫の墓に報告、移民妻の鑑として幾多の表彰状をうく》(同120頁)とある。
 半世紀前に残した子どもたちと夢にまで見た再会だった。これは実話だが、NHKドラマ『ハルとナツ』以上の移民物語といえないだろうか。コクエラ植民地では行事の際、必ずこの夫婦の拓魂を顕彰して感謝状を贈る。もちろん今回も送られた。

一筋縄ではなかったモジとコクエラの関係

 式典の帰り際、モジ文協元会長の山元治彦さんと話をしていたら、「今回初めてコクエラとモジの文協が一緒にやったんですよ。90周年までは別々でした」と気になることを言った。90周年時のモジ文協会長が山元さんだった。
 前出の『拓魂永遠に輝く』をひっくり返すと、半世紀前の入植50年祭の時は、勝ち負け抗争の余波もあり、最も勢いが強かったコクエラ植民地とモジ本部で主導権争いになり、コクエラは離脱してしまった。《祭典の危機》《コクエラとの見解相違》《遂に非常事態に突入》《遂に委員会を離脱》という見出しが続々と並ぶ。
 一日本人会といえども「開植の地」であり、350家族、1千人以上もいる勢いのあるコクエラ植民地の鼻息は荒かったに違いない。それが三、四世の時代になって徐々に緩和され、100年目にして今回本格的に手を組んだ――という流れのようだ。
 殺傷沙汰こそなかったが、勝ち負け抗争の思想戦も相当に激しかったことが50年史からは伺われる。1952年4月1日にモジ青年連盟が主催した弁論大会の後援にずらりと並ぶのは、ブラジル時報、ブラジル中外新聞、昭和新聞、輝社など勝ち組新聞・雑誌ばかり。1952年時点で勝ち組の読者が多く、勢力が強かったことが伺われる。

モジ産業組合理事長として活躍した渡邊孝さん『拓魂永遠に輝く』(40P)

 コロニア史的には、モジ産業組合とコチア産業組合との対立も有名だ。モジ産組初代理事長の渡邊孝さんは、コチアとの「理論と現実闘争」の立役者として一歩も譲らなかった。渡邊孝さんは《一九三九年二月二十八日、臨時総会の席上にて心臓麻痺で倒る。享年五十五歳。組合は故人の徳を讃え同年十月組合前庭に胸像建立》(同40頁)。モジ農業界の現在の隆盛を思うに、このような先人の存在は忘れてはならない。
     ☆
 式典の前に仏式とカトリック式で慰霊行事が行われた。その中でのサンマキシミリアノ・コウベ教区の松尾レオナルド繁詞司祭の言葉が印象に残った。
 「笠戸丸移民の到着から10年余り、1919年に鈴木重利さんがコクエラに入植されたのは、イスラエルの民がカナンの地に到着したことに喩えられます」と比喩し、「先駆者に感謝し、その冥福を祈りたい」と締めくくった。
 奥地の大農園で農業労働者(コロノ)だった移民が風土病で傷つき、健康地のモジに移って次々に自作農として成功してブラジルの大地に根を生やしていった。その様子を、エジプトでは奴隷だったイスラエルの民が、神に与えられた“約束の地”カナンに向かう「出エジプト」に似ていると喩えた訳だ。
 モジがこの一世紀の間に歩んできた道は、まっすぐでも平坦でもなかった。多くの衝突や激論を乗り越え、あちこちにその爪痕を残しながら一歩、一歩進んで来た。そして“約束の地”における次の一世紀への扉は開かれた。(深)

式典でケーキカット。左が山元治彦さん