4月9日、ヨシオは助け合うという精神をもって、帰途につくマサユキを連れ、アララクァーラ向けの汽車にのった。
ヨシオは房子に大歓迎を受けた。
「あなたがきてくれて、よかった。本当に助かるわ!」
夫の従兄弟を大喜びで迎えいれた。
ヨシオが従兄弟の農園でやる仕事は、自分の家の仕事とあまり変わらなかった。畑を耕し、除草をし、水を撒き、野菜を収穫し、箱につめ、馬車に積み、ラバ、クリオーロに跨る。ところがこれが大変だった。ラバは気性が激しく、知らない人を拒んだ。クリオーロが慣れている隣の津波へんいち(正輝同様、留置中の津波元一の遠縁にあたる)に助けをもとめた。アララクァーラの町の中心地の朝市まで馬車で運び、店をはり、野菜を売り、売店を片付け、馬車に乗せ、マッシャードス区まで帰る。これがヨシオの新しい仕事だった。
アララクァーラでの最初の日曜日、ヨシオは町を散策した。町に住む有名なユタの息子マモルが案内してくれた。マモルはちょうど正輝の家に遊びにきていたのだ。町の中心地に行く道は分りやすかった。町に向って街道を行き、高速道路を渡るとセッテ大通りが始まる。
帰途が大変だった。10時が過ぎ、月明かりもない。ヨシオは道に迷ってしまった。知らない人の農場に入って牛に驚かされ、そのあと犬にひどく吠えられた。いままで走ったこともない速さで走り、幸い、町まで戻ることができた。
それから、もう一度、帰り道を歩き始めた。今度は注意深くセッテ大通りの舗装道路が過ぎても歩きつづけて、サンカルロスとマットンに向う道路をわたり、もう少し土の道を歩きつづけると、左側にマッシャードス区の農園の入り口がみえた。帰ったときはもう夜中の0時だった。房子は寝ずに帰りを待っていた。やかましい正輝なら叱っただろうが、房子は帰りを確認するために起きていたのだ。
ヨシオは「自由でその上、冒険までした。アララクァーラでの一日は有意義だった」と心のなかで思った。その晩、ヨシオはぐっすり眠った。
第9章 赤レンガの館
検挙は次々に行われた。アララクァーラで臣道聯盟の会員と疑われる移民は警官に引率されサンパウロに送られた。ルス駅で下車し、駅から500メートルたらず先にあるジェネラル・オゾーリオ広場の赤レンガの壮大な建物まで歩いた。この赤レンガの建物は建築家ラーモス・デ・アゼヴェードが設計し19世紀末に建設開始、1914年に竣工されたもので、州立絵画館から始まり、ルス駅を経て、ジュリオ・プレステス駅にいたる一連の総合建築物のひとつで、このふたつの駅の間にあった。サンパウ鉄道会社の倉庫と経理事務所を収容するために建てられて、1942年からそこにDOPSが置かれていた。
正輝は4月8日サンパウロにつき、そこに一晩投獄された。牢屋に入るために階段をおりたので、地下室だと思ったら、そこは地上一階だった。実は横の入り口が地上だったのだ。建物の奥の鉄格子の向こうに、彼をアララクァーラから乗せてきた鉄道の線路が見えた。自由は手でつかめるほど、すぐ側にあるのだ。