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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(154)

 DOPSにはこの作業の手間を省くため印刷物が用意されてあった。表側には容疑者の「評価調書」と書かれ、証言がなされた日付、証言者のデータが記されていた。この部分はカルドーゾ署長、証言者、公証人が署名するようになっていた。裏側には証人の出席のもとに取られた「訴訟書」と書かれていた。
「訴訟書」作成はカルドーゾ署長が定めた厳しい規則に従いオゾーリオ・ロンドン公証人が行った。ロンドン公証人は四月はじめ、パラカツー街の臣道聯盟本部の家宅捜索を行ったさい署長に同行した人物だ。
 書類作成の初めは証人の名前を書き入れることだった。アララクァーラで捕まった容疑者は二週間の間、別々の日に調べられたのに、同じ二人の人物が証人者として書名した。証人の欄にはこう書かれていた。一人はアカシオ・デ・レーモス・バーロス、両親はマノエル・デ・レーモス・バーロスとイリア・デ・バーロス。27歳、ブラジル国籍、住所はジェネラル・オゾーリオ広場45番地、もう一人はマノエル・フェルナンデース・トメー、両親はマノエル・フェルナンデース・トメ(息子と同じ名)とアナ・デ・ジェズース・トメ。35歳、ポルトガル国籍、ポルト出身、住所はジェネラル・オゾーリオ広場67番地。
 二人は国(ただし、二人目は受け入れてくれた国)のため、あるいは警察のために奉仕したい気持ちが強かったのだろうか。一日中、しかも毎日、彼らにはまったく関係のない同じような通訳入りの証言を聞かなくてはならないのだ。いや、あるいは警官だったかもしれない。二人の住所がDOPSの本部になっている。いや架空の人物だった可能性もある。訴訟書の最後の署名の筆跡がまったく同じなのだ。
 また、カルドーゾ署長がアララクァーラの臣道聯盟の会員とみなす容疑者への詰問にも掟のような順序があった。いつ来伯したか。どこで下船し、どこへ向ったか。どんなところへ移り住んだか。現住所はどこか。職業は。ブラジル国籍の子どもがいるか。臣道聯盟の会員だったか。運営のための会費を納めていたか。会員になった動機は何か。日本が戦争に勝ったと信じているか。溝部幾多と野村忠三郎の暗殺を知っているか。臣道聯盟の幹部、吉川順治、根來良太郎、山内清雄、渡真利成一、石井喜一郎を知っているか。
 アララクァーラの仲間で初めにDPOSの調べをうけたのは湯田幾江だった。1946年4月10日のことで、検挙されてから5日後だった。まず、湯田はブラジルでのこれまでのいきさつを話した。「福島県、若松出身で、20歳すぎて移住した。1932年に着き、サントスからノーヴァ・エスパエランサへ行き、イタケレー農場で契約労働者として働いた。その後、リベイロン・プレットに移り、小西アントニオ経営の東京クリーニング店で洗濯業の仕事を身に付けた。そして、アララクァーラに転居した。日本人の湯田・ミエと結婚、ブラジル国籍の4人の子どもがいる。『ここに住む日本人に進むべき正しい道を示す役割を果たし、その役割は誠実で有益なものだ』という理由で臣道聯盟に加入した。会の維持費に月2クルゼイロを払い、高林明雄・アケオから貸してもらった臣道聯盟の情報誌を読んでいる。高林は臣道聯盟のアララクァーラの代理人で、彼はリスボア・ホテルの経営者有田マリオの知り合いだが、マリオ所有のラジオで日本のニュースを聞いていたことは全く知らなかった」と証言した。