「どうしてブラジルからは、彼女のように祖国で注目される作家が生まれなかったのか?」――10日晩、サンパウロ文化センターで行われた多和田葉子(59、ドイツ・ベルリン在住)の公開対談を聞きながら、海外在住者が持つ「外からの視点」という共通点を強く感じ、そう残念に思った。
同じ海外在住者でありながら、かたや世界から注目を浴び、ノーベル文学賞候補にまでなった多和田葉子。それに対して、園部武夫、田辺重之、片山耀子、古野菊生、桜田武夫、杉武夫、武本由夫、柳千枝子、山路冬彦、北島文子、田畑三郎などなど何十人というコロニア文学の作家がいたが、こちらは日本でもほぼ知られていない。何百作という膨大な作品群を残しただけ。
日系ブラジル移民研究者の細川周平氏によって唯一、松井太郎だけはすくい上げられてスポットライトを当てるように、『うつろ舟』(松籟社、2010年)、『遠い声』(松籟社、2012年)という小説選集が日本で出版されている。
この差は、ひとえに「彼女の文学的才能」という一言なのだろうか―と考え込んでしまった。
共通する「外から日本を見る視点」
彼女の作品群の中でも特に気になるのは、世界的な権威がある全米図書賞を2018年に受賞した『献灯使』(講談社、2014年)と『地球にちりばめられて』(講談社、2018年)だ。
前者は、東日本大震災の後にもう一度、大災厄が起き、放射能の影響でまともに人も住めず、人々の体にも多大な影響が出て、鎖国状態となった日本の話だ。
出版社の特設サイト(http://kodanshabunko.com/kentoushi/)では『献灯使』を、こう説明する。
《鎖国を続けるいつかの「日本」。ここでは老人は百歳を過ぎても健康で、子供たちは学校まで歩く体力もない──新しい世代に託された希望とは果たして!?
大災厄に見舞われた後、外来語も自動車もインターネットも無くなった鎖国状態の日本で、死を奪われた世代の老人義郎には、体が弱く美しい曾孫、無名をめぐる心配事が尽きない。やがて少年となった無名は「献灯使」として海外へ旅立つ運命に……》
『地球にちりばめられて』の主人公はヒルコ(Hiruko)と呼ばれる東洋人女性で、欧州留学している間に「中国大陸とポリネシアの間に浮かぶ列島」が地球上に存在しなくなってしまった話だ。欧州激増するトルコやシリアの移民や難民によって激変する社会のあり方に、日本の震災後の社会の変化のあり方を重ねた作品。「地球」のあらゆるところに「ちりばめられて」存在している移民を描く、普遍的なテーマを内包している。
「外から日本を見る視点」という意味では、コロニア作家と実に共通したものがある。だが、両者には大きな溝がある。
海外在住者ならではの「祖国喪失の感覚」
東日本大震災が起きた当日、グローボのニュース番組で大津波が東北の海岸線を襲う映像を繰り返し見て、翌日には福島原発が爆発して煙を吹く映像まで放映され、「日本はどうなるのか?」という強い危機感を受けたのを、昨日のことのように憶えている。
狭い日本でチェルノブイリのような原発事故が起きたら、住むところが無くなってしまうのでは、親兄弟・親戚、友人はどうなるのか?――というぐらいインパクトがあった。
その時、ふと思ったのは、終戦直後の勝ち負け騒動の際、勝ち組の人たちも同じ様な恐怖に襲われていたに違いないという感覚だった。5年、10年ほどブラジルでお金をもうけて日本に錦衣帰郷することを目標に来ていた大半の戦前移民にとって、「戦争に負けたら祖国は消滅する」と真剣に心配し、「神州不滅」のはずだから負けるはずはないと考えていた。
バルガス独裁政権によって1941年8月には全ての邦字紙は廃刊させられ、戦争中、日本語の情報は短波放送の東京ラジオしかなかった。それで聞き取った大本営発表を紙に書きとって、仲間内で回覧していた時代だ。
戦争は海の向こう、地球の反対側で起きているものであり、メディアが伝える情報を信じるしかなかった。ブラジルのメディアがポ語で伝える内容はアメリカのプロパガンダで、今風にいえばフェイクニュースだと信じていた。日本移民は、日本語で伝えられる大本営発表こそが本物だと信じていたから、ブラジル・メディアの日本敗戦報道を信じなかった。
日本は戦争に勝って自分たちを迎える帰還船を送ってくれているはずだと、サントス港付近で待っている家族が数十もあったという。今のように瞬時に情報が地球の隅々まで伝わる時代にはありえないことが、当時は起きた。
その結果、勝ち負けを巡って殺し合う事態にまで発展してしまい、20人あまりが亡くなった。
今思えば、勝ち組数万人の頭の中には、「日本帝国が第2次大戦で勝った」という壮大な「フィクション」(架空の物語)が描かれていた。いわば巨大な集団幻想だ。
このような「外国にいる間に祖国が消滅する」という恐怖は、長いこと外国に住んでいる人間にしか理解できない感覚かもしれない。
アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックの代表作の一つ『高い城の男』(1962年)は、まさに大日本帝国とナチス・ドイツが勝って世界を二分した後の様子を描いた空想科学小説だ。1963年に米国SF界の最高賞ヒューゴー賞を受賞した名作で、その地図を見たとき愕然とした。
南米大陸は、エスピリットサント州からエクアドルまでで区切られて北側がドイツ統治、日本移民が大挙して入ったサンパウロ州を含めた南側が大東亜共栄圏となっていたからだ。まさに勝ち組が描いていたのと同じ構図…。
ディックが勝ち負け騒動を知っていたかどうか知らないが、勝ち組の感覚はまさに「壮大なフィクション」だったといえる。
出来事としての勝ち負け騒動には、人種を超えた普遍性が含まれている。だが、日系社会には残念ながら、それをテーマに小説に昇華させられる才能を持った作家はいなかった…。
文化混交の日常生活から生まれる独自の言語
『地球にちりばめられて』の主人公ヒルコは、スカンジナビア諸国のどこでも通用する「パンスカ」(汎スカンジナビアの意)を勝手に創作する。スカンジナビア諸国の人たちはお互いがスウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語をしゃべっていても、ある程度意味が分かることから、「パンスカ」を発想したという。
ブラジル日本移民なら、ブラジルのニュースでスペイン語のコメントがそのまま流れたり、イタリア語やフランス語が似ていると日々感じる日常を送っている。その感覚に近い。ラテン語系言語なら、留学生の多くは半年もすればペラペラになる。言語系統がまったくかけ離れた日本語とは、大きく状況が異なることは、移民ならみな肌身に感じている。
また、ブラジル日本移民の場合は、生活言語としての「コロニア語」を発明した。日本で使ったことがないものを目にした時、「カーマ」(ベッド)、「Na Hora(その場で)でツーカーになれる」などとポ語をカタカナとして日本語に取り入れた。
大農園のことを「耕地」と表現して「入耕」「退耕」「脱耕」と活用させ、「火酒」はピンガ(サトウキビの蒸留酒)、面積の単位を「域」と書いて「アルケール」(2・4ヘクタール)と読ませた。
通貨単位には「釬」を使った。日本なら「カン」と読むが、日系社会では「ミル」(1千の意)と読ませた。金ヘンに千でミルだから、よく考えたものだと感心する。りっぱな言葉の創作だ。
本紙1月4日付から5回にわたって、ブラジル日系文学会の中田みちよ会長は「コロニア語考=移民の知恵」(https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190104-61colonia.html)を寄稿した。《ほら、ペピノをコルタして、トマテをミスツーラ、テンペラして、サラダにするのよ》など、自分が昔使ったコロニア語を示し、ポ語が豊富に混じっていることによって、一緒に畑仕事をするブラジル人にもだいたいの意味が分かっていたと証言した。
日本語とポ語という言語系統がはるかに離れた言語同士でも、上手に混ざればお互いに意思の疎通ができる好例だ。このような壮大な文化混交の民族的実験が、ブラジルを舞台に行われている。
二つの世界を行き来する感覚
彼女の来伯に合わせて『Memórias de um urso-polar』(Todavia、ポ語版『雪の練習生』)が記念出版された。対談の中で、「ヨーロッパ文学においては、動物が主人公のものがほとんどない。ごく少数。だから私は、カフカとよく比較されるようです」というのを聞いて唸ってしまった。
欧米社会では『かもめのジョナサン』(リチャード・バック)とか『動物農場』(ジョージ・オーウェル)など多くはない。だが日本語世界なら夏目漱石『吾輩は猫である』(1905年)から始まり、アニメ・漫画などでも一般的な手法だ。
ちゃんとドイツ語世界に頭を埋没させているから、日本語世界との特徴の比較ができ、どのように何を書けば、より自分が欧米社会にアピールされ、言いたいことが伝わるかという戦略を練ることができる。
多和田葉子の話を聞いていて、決定的に移民文学との違いを感じたのは、郷愁がないことだった。移民文学は圧倒的に郷愁という切なさが根底にある。どの文章にも通底して、祖国への想いが切々とある。
だが、多和田葉子にはそれがない。講演の中で「年に2、3回日本へ行く」と言っていたので、日本との距離が近いのだ。これだけ交通機関が発達した現在においても、ブラジルからは10時間余りの飛行機を、二度も乗らないと祖国に帰れない。その距離感の違いは決定的だ。
あと、本人から聞いたが、ドイツには日系社会と言えるほどの日本人永住者とその子孫の集団はないのだという。
父親は欧州文学の本を大学に納める仕事をしており、「父から本を紹介されことはないが、ただ面白そうに読んでいた姿を見せられた」という。ロシア文学に心を惹かれ、最初ロシア語を勉強することから始めて、20歳前後にしてシベリア鉄道で大陸横断して欧州まで行く経験をし、ドイツの大学に留学して住み始めた。そこで冷戦の終結という世界的な出来事を目撃する。
ドイツ人ばかりの社会でドイツ語を駆使して生活する元留学生というプロフィールは、ある意味、移民大衆とは対極にあるエリート的なもの。日本語でも意思疎通できる社会がある程度残っているブラジルでは、ポ語が苦手な移民が多い。そこの基礎からして、まったく違う発想になるのかもしれない。
多和田葉子とコロニア作家の差とはどこから?
多和田葉子と、コロニア作家の差について考えているうちに、『コロニア小説選集』(全3巻)の第2巻(1977年)版編集を担当した清谷益次さんのあとがきを思いだした。
いわく、コロニア作家が《小説を書こうとする意識の底には、自らが経て来た〃理不尽〃(自分の意志によらず運び込まれた環境とそこでの余儀なくされた生活)な道程を何ものかに向つて訴えたい、知って貰いたい、知らしめたい、という渇望のようなものがあったことも考えられなくはない》とし、永住への心境変化の過程、家庭内における異文化適応など、いろいろなものを表現しようと意気込んだ。
しかし、《別に思考の訓練も、ものを書くことへの修練も方法も持ち得なかった移民にとって、ただ心奥にくすぶるひたすらな渇望だけではこのような容易には把握し難い問題を、まして小説という、かなり深い洞察力と高い表現技術を必要とする文学形式で十分にコナすことは殆ど至難の業であったといえる。
きわめて表面的な描写に終ってしまうのも、或いはやむを得ないことだったかも知れないのだ。
例えば、日系コロニアの一人々々の心に深い傷を刻んだ〝勝ち組、負け組〟の問題も、幾つかは小説の形をとって文学賞に応募されはしたが、陽の目を見得たものは、誠に蓼々たるものである。発表されたものも、作品化されているというのには、甚だ遠かった筈である。
コロニアの小説作者たちは、このナマナマしい、長い期間に亘って繰り広げられた愚かにも悲しいこれほどの出来ごとを、客観し分析し、作品として構成、昇華させるだけの力を持ち得なかった、といえる》
現実の出来事を観察し、それを小説の材料にするところまでは一緒。コロニア作家は伝統的な私小説スタイルに、こだわりすぎた部分があるのかもしれない。
多和田葉子の場合は、その気付きは発想の発端にすぎず、想像力を駆使して膨らませ、まったく別の魅力的な世界に結晶化させる。その想像力、構想力、表現力こそが彼女の文才の真骨頂なのだろう。
だが「コロニア文学は所詮、大衆文学か」と卑下したり、悲観したりしていても仕方がない。その移民大衆の子孫からは、いずれ世界に羽ばたく人材も育ってきているに違いない。
将来的には190万人の日系人の中から、日本とブラジルにまたがった感覚を表現する作家が生まれるかも。実際、長崎県出身で、日系イギリス人小説家の石黒一雄は、ノーベル文学賞をとった。彼も、立派な日系人だ。
数百人もいる日本語教師、特に二世やデカセギ帰伯子弟の中から、そのような存在が生まれてもおかしくない。
現在までにノーベル賞の全分野を通して、ブラジル人受賞者は一人もいない。もしかして日系ブラジル人からノーベル文学賞受賞者がでるかも。そんな夢物語が、いつか現実になることを信じたい。(深)