アマゾン日本人移民といえば、最初であるトメアスー移住について語られることが多い。しかしその他にも幾つかのグループがこの流域に入植した。その一つが、「アマゾン開拓の父」の故・上塚司が主導し、1931年にアマゾナス州パリンチンス地方へ入植した「高拓生」である。
その上塚司の孫、上塚芳郎(よしお)さん(67、東京都)は、アマゾン日本人移民90周年の式典へ参加するために来伯しており、ベレン市の「博多」で行われた昼食会に参加していた。本業は医者で、東京女子医科大学附属成人医学センター所長、特任教授の肩書を持つ。
「上塚司は、私が26歳となった1978年に88歳で亡くなりました」―芳郎さんはそう話し始めた。上塚司のアマゾン開拓への夢は、従兄弟の「移民の父」上塚周平の影響と、神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業後に就職した南満州鉄道株式会社での経験によるものだった。
「満鉄調査部に配属され、中国大陸の調査をしたのですが、祖父は日本の満州政策に対し良い思いをしていなかった。そこで上塚周平が移民事業に携わっていたブラジルへ目を向け、行きたいと思い始めたそうです」。
27年、アマゾナス州知事エフィジェニオ・デ・サレス氏から田付七太大使への熱心な勧誘のもと、東京の青年実業家・山西源三郎と在リオデジャネイロの粟津金六が100万ヘクタールの州有地の無償譲与を受ける契約を締結した(山西・粟津コンセッション)。
しかし山西の体調の関係もあり実現の見込みがなく、当時の衆議院議員・上塚司が引き継ぐことになった。上塚司は、28年と30年の2回にわたって調査団を派遣。土地を調査・選定し、パリンチンス市近くのビララ・アマゾニアを買い入れた。この土地には、30年にアマゾニア産業研究所を設立させた。
同年、上塚司は国士舘高等拓植学校(高拓)を設立。アマゾン地方の開拓を目指した10代後半の若者たちが入学し、31年4月には第1回生47人がアマゾンに向けて出発し、6月にビラ・アマゾニアに到着。ここで1年間の実習を行った。
だが、軍部の満州進出に同調する国士舘とは32年に訣別。31年10月にアマゾニア産業研究所(上塚司理事長)名義で購入していた、神奈川県橘樹郡生田村の畑地に校舎を建て、新たな学校法人「日本高等拓植学校」を設立した。
後に芳郎さんから送られてきた資料には、次のように書かれている。
《日本高等拓植學校(神奈川県橘樹郡生田村)の第1回卒業生だが、アマゾニア産業研究所では、國士舘高等拓植學校時代から起算し「第3回卒業生」と呼んでいる。卒業生数は各期別で最大の82名。第1回生、第2回生とくらべ上塚司校長と接する機会が多く、毎週「植民論」の講義をうけていた。
植民事業の意義と困難について理解する優秀な学生(佐々木一哲、原田行郎、池上欣二、丸岡京ら)が目立つ。ジュート栽培のため、高拓生の多くが川岸の低地へ移動したあと、アンディラー模範植民地の畑地(カスターニャ、ゴム、カカオ、グアラナー、コーヒーなどの永年作物)を維持管理したのは、第3回生だった。
彼らのうち数名(森進一郎、古賀邦次ら)はその後もこれらの作物栽培に従事しながら、仲間が造成した畑地を管理。
一方、ジュート栽培に転じたグループは、第2次世界大戦中のアマゾンで、ジュート産業拡大の中心勢力として活躍。また、戦後のアマゾン移住再開にあたり、辻小太郎の下で受入準備に従事したのも、多くは高拓第3回生である》
この3回生から、37年の第7回生まで278人の学生とその家族の398人が入植した。だが開戦間近の38年に終了し、第2次世界大戦が勃発して同地の資産は没収された。高拓生も散り散りとなった。(つづく、有馬亜季子記者)