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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(162)

 取り調べ責任者のカルドーゾ署長の報告書のなかに訴訟の方法について、ある手段を提案したところがある。訴訟は内容によって二組に分ける。一組はテロリストとして国外追放にするグループ。もう一組は国の治安にかんがみ、軍事裁判省が処理する。
 ところが、大量の日本語による証拠書類で、訴訟を二つに分けることは不可能だった。そこで、まず、法務省が訴訟を行い、その結果を軍事裁判省に伝達し、最終的には大統領が国外追放を命じるという方法を提案した。

 カルドーゾ署長が手がけた訴訟書類は長く、複雑で、ときには同じことをくり返したところがあった。その先、普通の裁判所へ、あるいは軍事裁判省、あるいは法務省に回されるか疑問が残った。多くの検挙者の調べはすみ、少なくと臣道聯盟の重要メンバーは警察の手にわたった。まだ留置所に多くの者が残っていたが、取調べはすでに終っていた。釈放された者たちの居場所は警察の監視下にあり、裁判結果をそこで待っていた。カルドーゾ署長は問題はすべて解決し、臣道聯盟はこの世から消えたと宣言した。それはまったく彼の誤算だった。
 彼が秘密組織と呼ぶ臣道聯盟のメンバーが訴訟されてから2週間後、1946年6月はじめ、ビラッキの認識組の日本人が殺害され、ブラウーナでもう一人が襲撃を受けた。そのとき、警官との撃ち合いで、勝ち組の一人が殺され、一人が負傷した。12日にはビラッキとコロアードスで4人の認識組が負傷した。このほかバストス、カフェランジア、ゼツリーナ、ボルボレーマ、ルセーリア、オズワルド・クルスで暗殺やテロが続行された。
 1946年3月7日から7月18日の間に12人の日本人が殺害された。(その中の1人だけが勝ち組)25人の負け組が国賊という名のもとに勝ち組から負傷をおわされた。9人の殺害は7月10日から18日の間に行なわれ、平均すると1日に1人殺されたことになる。日系人社会内の暴力増大の兆しにほかならない。
 事態を怖れた連邦指名のサンパウロ州執政官のジョゼー・カルロス・デ・マセード・ソアーレスは、州知事官邸のエリーゼオス宮殿に勝ち組や奥地に散らばる主な日系社会の代表者を招集した。西洋人種には理解不可能な勝ち組、負け組の対立に止めを刺そうと、戦時、戦後にいったい何が起ったのか明らかにしようと考えたのだ。
 この招集にあたり、マセード・ソアーレス州執政官は招集状のリスト作成を怠らなかった。リストにはカルロス・カルメーロ・デ・ヴァスコンセーロス・モッタ首都大司祭、第2軍団の団長ミルトン・デ・フレイタス将官、第4地区のアルマンド・アラリボイア団長、スイス全権大使ラグマール・クミリン(日伯外交が途絶えていたため、日本の外交はスイスを通して行われていた)を招集した。
 また、州執政官は彼の捜査班としてエジガー・バブチスタ・ペレイラ州長官、アルツール・ピケロボイ・デ・ウィテイカー法務及び内務省官、アントニオ・シントラ・ゴルジーニョ財務省官、フランシスコ・マルタ・カルドーゾ農務省官、プリーニオ・カイアド・デ・カストロ文部及び公衆衛生省官、カシオ・ヴィジガル航空省官、ペドロ・A・デ・オリヴェイラ保安省官、そして、総司令官のルイス・ガウヂエ・レヴィ将軍、それに、スイス領事館の補佐員として早尾すえたか外交官が加えられた。