通訳として、スイス領事館の森田よしかずと、ジョゼ・サンターナ・デ・カルモが招集され、二人は臣道聯盟の調査のさい、カルドーゾ所長により働きを認められての招集だった。当日は500人から600人ほどの日本人社会の代表者が州知事官邸の赤い広間を埋め尽くした。
はじめに、スイス全権公使はすでに日本人たちに配布されていた書類を読み上げた。外国に住む日本人にあてた吉田首相の終戦報告、裕仁天皇が1945年8月14日にラジオ放送で伝えた敗戦のお言葉、同年9月2日、アメリカの戦艦ミズーリで署名された敗戦宣告などだ。
そのあと、この招集の発案者マセード州執政官はスイス大使の報告を分りやすく説明した。「スイス公使が読み上げられた書類のように、日本の現況は全く明らかだ。なによりもブラジルの法律、そして天皇が選ばれた日本国を代表するスイスの指示に従っていただきたい」
そして、終りに同胞同士の戦いをやめ、仕事にもどり、日本人を受け入れたブラジル発展のために尽くすよう語った。
日本人たちが発言できるときがきた。なかの一人は考案者に会議の議事録のなかから「無条件降伏」とか「敗戦」など連合軍の勝利をうたう言葉を除いてほしいという意見がでた。この招集で日本人同士の争いをやめさせるという目的を果たしたいと思ったマセード州執政官は、彼らの意見を受け入れた。サンパウロ州政府にとって、日系人社会に平穏がもどれさえしたら、そんなことはどうでもいいことだったのだ。
ところがこの発案者の承認は、勝ち組には日本が敗戦しなかったことをブラジル政府が認めたと受け取った。だから、会議に出ていた者たちは喜びに湧いた。
ブラジル政府高官は、日本人間の争いの根強さを理解していなかった。日本の敗戦が彼らにはっきり伝わり、日系社会に平和が戻ったことで喜びに湧いたと解釈した。会議に出席した勝ち組は発案者が議事録から「無条件降伏」とか「敗戦」という言葉を削除することを承認したのは、日本が負けなかったいうなによりの証拠だと考えたのだった。
日本人が集団する地方で勝ち組、負け組の争いが激化するさなかの6月26日の朝、房子は7番目の子どもを授かった。何回も助産婦の経験を重ねた正輝が自宅で赤子をとりあげた。父の希望通り、男の子だった。
すでに決められていて、臣道聯盟の創立者で指導者でもある吉川順治の名と同じのジュンジと名付けられた。夫婦の最後の子となるジュンジは土間の家でうまれた。このような家で生まれたのは長男と次男のアキミツだけだ。二人はタバチンガのパウケイマード農場の粗末な家で生まれた。中の4人はレンガ造りで床がタイル張りかセメントの家で生まれた。ヨーチャンはアラサツーバ郊外のセッテ通りのアイスクリーム店で生まれた。ミーチ、ツーコ、ヨシコの3人はマッシャードス区の田場けんすけ所有の土地にある立派な家で生まれた。
アララクァーラの臣道聯盟の会員は平穏を取り戻したようだった。マセード州執政官はアララクァーラ同様、他の市でも日本人間の争いは治まったと考えた。