9月9日、コレイオ・パウリスターノ新聞が「臣道聯盟の8人の指導者が『連合軍により座をおわれた』という情報をサンパウロの日本人に流した」という記事を報道した。それは日本の敗戦を全てのブラジル人が知っていることを臣道聯盟の指導者が認めたということだ。もし、本当のことを伝えた記事だったら、いままで臣道聯盟が行ってきたことを認めたことになる。
だが、真実は違っていた。日系社会の犯罪の波を止めさせるために署長自身が書いた記事だったのだ。署長は検挙されたていた8人ではなく、7人に釈放を条件に署名させた。4人は日本の勝利を信じるが、臣道聯盟の会員ではないといった。3人は会員ではあるが本部とは関わりなかった。3人のうちの2人がアララクァーラの仲間の湯田幾江と高林明雄だった。3人目は佐々木忠雄ラウロで、北海道出身、32歳、既婚者、両親は佐々木しゅうぞうとヨシ、商人、プレジデンテ・プルデンテのジジャウマ・ドウトラ232街に住む男だった。
カルドーゾ署長はむだ働きをしたかもしれない。すでに臣道聯盟の活動は終局に向っていた。だが、その終局は検挙者や日系社会の者たちが受けた傷を癒すことはなかった。
おもしろいことに、臣道聯盟は元本部のパラカツ街96番で復活した。だが、今度はもっと柔軟性のある会となった。旧リーダーの吉川順治退役陸軍中佐に従った者たちは聯盟の進み方に不満を抱き、「直放運動」という新しい組織を設立した。役員たちは会員の一人がいるビラマダレーナに集まった。1948年、再び二つの組織が合併し、ジャルジン・ダ・サウーデ区マリーア・ダス・ドローレス・ブラーガ街4番地を本部にした。1949年4月30日、リーダーの吉川順治はアンシェッタ島の牢屋に入っていた者たちがみな釈放されたのを見定めて、その会の活動に終止符を打った。
だが、臣道聯盟の法的処置は未だに開始されてはいなかった。
(※訳者注=今回終了した『赤レンガの館』文中の「スイス」という国名は「スエーデン」の誤りでした。謹んで訂正させていただきます)
第10章 真実
正輝には気がかりなことがあった。投獄生活のエピソードが彼ら全員の生涯に汚点をのこしたのは事実だ。それは彼の履歴から決して消すことのできない汚点だということはよく分っていた。日常生活をいとなむ上でも、そのことがいまだに不安を駆りたてた。勾留については何もはなさなかった。警察は彼をはじめ、仲間の高橋先生、洗濯業の湯田、2度検挙された農家の三保さえ招集することはなかった。遅かれ早かれ、いずれ裁判所からよび出しがあることも承知していた。だから、それが不安の原因ではなかった。
「喫緊の問題ではない」と考えていた。自分は41歳、房子はもうすぐ40歳をむかえる。7番目の子ジュンジは彼ら夫婦の最後の子どもになるだろう。二人ともいまさら、子どもをもうける年でもない。そんなことが気がかりだったのではない。世間一般とは違い大家族で10人に膨れ上がってはいる。けれども、生活は質素でも不足はなく、他の移民たちと比べて決し劣っているわけではない…。
しかし挫折感に囚われる。その原因が何なのかはっきりしない。経済的物質的なことが原因でないことははっきりしている。渡伯以来28年、自分にも家族にも物資的に十分な生活を営んできた。