供え物が並べられた仏壇に一人3本ずつ線香(沖縄語でウーコー)を立てた。家族は手を合わせて祈る。まず、家長、つづいて妻、次に年上から順に息子、そして娘と順序が決められていた。末っ子のジュンジは一人ではできないので、房子が線香を立てた。
それが終ると、供え物がさげられる。それを沖縄ではウサンデーといった。
さげるとき深々とお辞儀をした。供え物はジャカランダのテーブルに置かれ、それを囲んで家族の人々は先祖の人たちといっしょに食した。
正輝は沖縄の習慣をきっちり守る人間だった。宗教的習慣は家庭で身につけたもので、沖縄の習慣に正しく従っていた。けれども、敗戦やそれにつづいておきたどさくさによる空虚な気持ちを埋めるためには、もっと具体的な何かを求めはじめていた。苦悩をのりこえるために先祖を敬うことだけでなく、自分自身のためにすることがあるのではないかと考えたのだ。
もう10年ぐらい前から、あるグループの間で、「生長の家」から発刊されている書が読まれていた。「生長の家」は1930年、谷口雅春により創立された新しい宗教団体だ。谷口雅春は1893年、神戸で生まれ、早稲田大学文学部英文科を中退し、宗教の道に進んだ。
1934年、病床にあった松田太郎が谷口の書いた『生命の實相』を読み快復した。そこで、弟の三好と共にブラジルにおける「生長の家」の普及を始めた。松田兄弟の努力が実り、ノロエステ線、パウリスタ線の各地に広まっていった。1936年11月、グァララペスの読書サークルが本部に認められ、「生長の家」ブラジル支部設立の運びとなった。それをきっかけに、各地で読書サークルが生まれた。そして、1937年、グァララペスに「白鳩会」が誕生した。
勝ち組、負け組の紛争が始まるや、「生長の家」海外部はブラジルに教義を広めるため、海外担当部の徳久克己を派遣した。
「ブラジルに住むに日本人は勝ち組、負け組に分かれて紛争しているが、目前の勝ち負けにこだわりすぎている。『生長の家』の正しい哲学観からみて、日本は決して敗北したわけではない。勝ち負けは一時の現象だ。敗れたのは無明と島国根性にかたまった『偽りの日本』で、本当の『神聖日本』は敗れる訳がない」と徳久は説いた。
そこには正輝をはじめブラジル日系社会が必要としている明らかな説明が含まれていた。なにも勝った、負けたといい争うことはないのだ。日本は「永遠に勝利を飾る」国なのだから。その上、「生長の家」の幹部たちは臣道聯盟の名に触れなかったが、勝ち組の活動を好意的に受け取っていた。後年、谷口雅春は勝ち組について次のように書いている。
「日本の歴史は勝利の歴史で綴られている。十三世紀、モンゴル帝国のチンギス・カン襲撃、1894年から1895年の支那事変、1904年から1905年の日露戦争のおり、勝利している。ブラジルの地にあり、太平洋戦争の敗戦、降伏が信じられなかった。従って、連盟軍に日本軍が敗れ、アメリカが原子爆弾を投下したというニュースもデマだとして信じなかった。これは正当な行為と考える」