戦前戦後にかけて多くの大学進学者を輩出した暁星学園とその勤労部卒業生の「最後の同窓会」が11月17日(日)昼から、サンパウロ市セルケイラ・セザール区の高級マンションのイベント室で開催され、同窓生と岸本家ら約40人が集った。冒頭、同窓会世話人であるコレジオ・ブラジリア創立者の坂本綾子さん(81、二世)は「テニスクラブで長いこと開催してきたが、90歳以上の人が増えて参加者が減ってきたので今回が最後だと思っている」と挨拶。しかし、意外な展開から来年も開催されることになった。
行方(なめかた)敬郎(たかお、85、二世)は、「2003年に岸本イザキさんの家に卒業生10人が集って実行委員会を作り、それから毎年同窓会は開催されてきた。130家族が登録され、初回の参加者は155人もおり、その後も100人を超える人数が集っていた。だが09年から100人を切るようになり、ここ数年は40人ていど。実行委員会もなくなった。今回が17回目だが、残念ながらこれ以上続けられない。でもこれまでの会は、永遠に皆の記憶に残るでしょう」と経緯を説明した。
暁星学園の生徒は寮費を払って宿舎に住んで日本語を習い、昼間にブラジル学校に通う。当時、地方には小学校しかない町が大半で、高校や大学進学にはサンパウロ市に子どもを送るしかなく、戦前にノロエステ地方で日本語教師をして信用が厚かった岸本氏に子弟を預けた。
勤労部では裕福でない子弟が共同生活をし、昼間は男子が洗濯業、女子が裁縫業に従事して学費を稼ぎ、夜学に通って大学進学を目指した。行方さんは「勤労部には15人ぐらい常にいて男女の宿舎は別。仕事場は一緒だった」と懐かしそうに語った。
リオ在住の田中藤井すみこさん(82、二世)は「父が結核で死に、母も同じ病気にかかり、一度は幼い私達を道連れに心中しようとした。でも母は思い直し、私達を岸本先生の家の前に置いていった。岸本先生は何も払わない私達を、他の生徒と分け隔てせず育て、教育を与えてくれた。9年ぐらい世話になった。岸本先生がいなければ、私達はとっくに死んでいた」と感謝を述べた。
望月路得子(るつこ)さん(91、北海道)は「私は12歳で勤労部に入った。朝は山のような洗濯物にアイロンをかけて繕い、きれいに畳んだわ。岸本先生は厳しいが、とても尊敬されていた。奥さまは『学園のお母さん』のような存在で、とても親しまれていた。時々仕事場に来て私達と一緒に裁縫仕事をしてながら話を聞いてくれた素晴らしい女性だった」と振り返った。
沖縄県人会から島袋栄喜前会長と『群星』編集長の宮城あきらさんが出席し、坂本さんの父の話が第5巻に書かれていることを紹介し、その功績をたたえた。
「暁星勤労寮歌」を全員で合唱した後、岸本アレシャンドレ氏が、祖父・昂一氏の著書『南米の戦野に孤立して』のポルトガル語版を来年出版するとの予定を発表。戦争中の日本人迫害の事実が書かれていたためにDOPSから発禁処分を受け、岸本氏が国外追放裁判にかけられた曰く付きの本だ。
アレシャンドレ氏が「出版記念パーティの時にぜひ皆でまた集まりましょう」と呼びかけると皆が賛同し、最終的に来年も集まる事になった。
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暁星学園同窓会で行方敬郎(たかお)さんは、「9年間、勤労部で働きながら公立学校に通い、ピラシカーバ農大(USP)を卒業し、サンパウロ州生物研究所で植物病理の研究者となった。勤労部では朝6時に起床し、午前8時から夕方まで洗濯の仕事をしてから、夜高校に通った。厳しかったが、この制度があったから大学まで進学できた」と創立者・岸本昂一氏のことを称賛していた。坂本綾子さんも勤労部で苦労したあと、教育者となって私立小中学校ブラジリアを創立した。多くの卒業生は大学を卒業しているという。経済状態が良くなくても子どもを大学でやることができたこのような寄宿舎学校の存在は、日系社会にとって、とても大事なものだったといえる。