中曽根康弘先生が2019年11月29日金曜日の朝7時22分に101歳の天寿を全うされ、永眠されました。
衷心よりお悔やみを申し上げます。
長年に亘り秘書を務め、最も尊敬する先生がお亡くなりになり滂沱たる涙を禁じえません。
先生は戦後の数多くの政治家の中で、まさに巨星にふさわしくひときわ大きな輝きを放った政治家でした。遠くにいても、またお側近くに仕えていても常に燦然と輝いておられました。
ケネディ大統領は「私は理想主義者だが、幻想は抱かないリアリストだ」と言いました。まさに先生はそのような政治家であり、アメリカ留学は未経験でしたがプラグマティスト的思考、アメリカナイズされた徹底した合理主義者でした。
私は、先生が総理を辞任される少し前に中曽根事務所に入所し、その後20数年にわたり秘書としてお仕え致しました。先生は政治家として何をなすべきか、ゆるぎない信念と明確なビジョンを常にお持ちでした。
その最終的な目標は日本の平和と繁栄、そして世界との共生にあり、そのために為すべき日本の役割を生涯にわたり追求し、発信してこられました。
政治家としての先生の面目は、何といっても外交にありました。レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係は、政治信条は言うに及ばず人間としての深い信頼で結ばれていました。最近公開された当時のINF(編注=中距離核戦力全廃条約)交渉を伝える外交文書のなかで、レーガン大統領自ら「中曽根首相の考えがとても役に立った」と感謝の意を表わしていたことが明らかになっています。
レーガン大統領との信頼関係を基軸として、サッチャー英首相、ミッテラン仏大統領、コール独首相、ファンファーニ伊首相、マルルーニー加首相などサミット諸国の首脳と結束を固めソ連と対峙し、共産主義指令経済の歴史的な崩壊を導いたことは外交上の最大の功績と言えます。
国内においては「戦後政治の総決算」を掲げ、経済主義に偏った吉田茂政治からの脱却を進めました。経済至上主義は、権利と義務の観念を捻じ曲げた自分さえよければいいという利己主義をもたらし、自国さえ平和であればいいという一国平和主義、とりわけ平和もお金で買えるという意識を生み出しました。
先生は国に蔓延したこの考えを是正し、自分の国は自ら守る気概を持つことを訴え、国民の考えを引き上げることを目指したのです。それは無責任な一国平和主義から、世界と共に歩く国への転換を意味しました。
総理退任後に自らすべき仕事として、三つのテーマを掲げられました。
第一に、日本及び世界の平和に貢献するために「世界平和研究所」(現:中曽根平和研究所)を設立すること。世界平和研究所は1988年に設立され、憲法改正をはじめとする日本の重要な政治課題について研究すると同時に、世界情勢を分析し独自の提案を行っています。
第二にアジア共同の家の構築の一手段として、「アジア太平洋議員フォーラム」(APPF)を設立すること。これはアジア各国の国会議員が交流し、議員同士の信頼関係を醸成することを目的としたものです。APPFは1993年、東京で中曽根先生が創設者として設立総会が開かれました。以後、毎年各国の持ち回りで開催されています。現在の参加国は29カ国。2019年の1月にはカンボジアで第27回の総会が開催されました。
第三に自ら「国際的球拾い」と称して、世界各国の大学やシンクタンクなどから依頼された講演活動や提言などを行うこと。5年間の総理大臣という重責から開放された先生は、翼の生えた鳥のように自由に世界を飛び回り世界平和、世界と日本の関係、日本人の考え方などを講演して回りました。
政治、経済の分野で発展を遂げた日本に対する世界各国の関心は強く、講演依頼は引きも切らず、退任後の10年間は年に8、9回、海外での講演を行っていました。
APPF、外国での講演、その全てに随行させて頂いたことは、私の貴重な財産になっています。
講演で海外を飛び回っていた時の忘れられない思い出があります。『中曽根康弘の長寿の秘訣 100歳へ!』(2015年 光文社刊)を執筆したときに、あとがきに書いたエピソードをあらためてご紹介したいと思います。
―滞在していたロンドンのホテルの部屋にサッチャーさんが訪ねられたときのことです。サッチャーさんが首相を辞められた直後のことでした。会談を終えた後、玄関口までお送りするために、私は一緒にエレベーターに乗りました。
するとサッチャーさんが突然私に、「ミスター・ナカソネは相変わらず理路整然としていて明晰ね、彼の話にはいつも触発されるわ。あなたは幸せね、あんな素晴らしい政治家と一緒に仕事ができて」とおっしゃったのです。秘書冥利に尽きる至福の瞬間でした。
その後、サッチャーさんとまったく同じ称賛と励ましを二人の政治家からいただきました。一人はロシアのゴルバチョフ氏で、もう一人はカナダの首相だったマルルーニー氏からでした。先生の偉大さを再認識する瞬間でもありました。
私個人の思い出も尽きないほどありますが、最も印象に残っているのは最初で最後でしたが先生から怒られたことです。
あるとき、車の中で「原稿を見せてくれ」と言われました。その原稿は先生から口述筆記したもので、チェックした上でパソコンで打ち出しお渡しするものでした。先生の指示は2日以内に必ず行っていましたが、何度もやってるうちに慣れもあったのでしょう。
先生は原稿をまだ見ないと勝手に思い込み、先生の他の仕事を優先し、チェックはしていませんでした。先生から「原稿を」と聞かれた時に『まずい!!』と思いつつも先生にお渡ししました。
眼鏡を取り出して読み始めた先生が、突然原稿を私の目の前で振りながら「キサマ、俺にチェックさせる気か!」と案の定怒鳴られたのです。当然、私がいけなかったのですが、これまでそのように叱られたことがなく、特に「キサマ」と呼ばれたことがショックでした。
数日後、先生をご自宅までお送りしたとき、蔦子夫人が「田中さん、一緒に夕飯をどう?」と言われ、先生と夫人、そして私の3人で夕餉の食卓を囲みました。そのとき、夫人が「最近、仕事の方はどう?」と尋ねられたので、「実は大失敗をして、先生からキサマ!と怒鳴られました」と顛末を話しました。
すると夫人が笑われて、「あら田中さん、キサマなんてうちではしょっちゅうよ。私も頭にきたので『貴方からキサマ呼ばわりされるなんて、しかも女性に対して失礼よ』と言ったことがあるのよ。そうしたら何と言ったと思います。『キサマというのは貴様と書くんだ。読んで字のごとし、あなたさまと尊敬してるんだ』ですって。海軍では仲間は誰でも貴様と呼ぶでしょう、それが抜けないんですね」。先生は苦笑しながら、黙って食事を続けられていました。
今から思えば、私を励ますために、夫人に頼んで夕食に誘って下さったのでしょう。その蔦子夫人も10年前程にお亡くなりになりましたが、先生も夫人も人との縁を大切にする優しい心をお持ちの素晴らしい方でした。
総理在任中、谷中の全生庵で毎週一回の割合で座禅を組み精神を落ち着かせ、外国から帰国すると水泳に行き体調を管理し、週末には東京都下の日の出山荘で静養しつつ1人で政策を練り、国家の運営を考える。先生は「何の事故もなく無事に1週間を終えた時は心から“ほっ”とする」と、私に言われたことがありました。
それほど内閣総理大臣とは自己研鑽を積み重ね、国家、国民の安寧を常に考え、その重責を背負っていると痛感したことがあります。
先生は、学生時代、教養主義の中で読書に明け暮れ、パスカルの『パンセ』を全訳し、カントをこよなく愛し、ノーブレス・オブリージュ(編注=身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任があるという考え方)の精神を持ち続け、自ら「私のなかには国家がある」と喝破した最後の国家エリートでした。
自国第一主義の下、世界が再び散乱を始めています。日本では政治に対する不信感が国民の間に広がっています。この難局に羅針盤の如く日本の進むべき道を明確に示してくださった先生はもういらっしゃいません。先生の死とともに、先生が示されるはずだった未来図も失われてしまいました。
先生が残された数多くの資料や書物などから、先生が考えられた我々が進むべき道をお伝えしていくことが、残された私の一つの使命と考えております。
敬愛してやまない中曽根康弘先生、長い間、お疲れ様でした。ゆっくりお休み下さい。