佐久間正勝ロベルトさん(83、二世)は、1936年にサンパウロ州サントス市で生まれた。物心がついた時、既に日本は敵国としてブラジル政府に認識されていたという。事件当時は7歳で、小学校1年生だった。
事件当日、学校が冬休みに入っていたため、佐久間さんは家にいた。両親は仕事に行っており、上は9歳から下は2歳の兄弟4人だけだった。そこに武装したブラジル人警官がやって来た。
それに気づいた佐久間さんは、「ドアを全て閉めて見つからないように隠れた」と咄嗟の行動に出たことで、気づかれずに事なきを得た。
その後、戻ってきた両親は、近くに住んでいた叔父宅を訪問した際、皆に退去命令が出たことを知った。佐久間さんに当時の両親の様子を尋ねると目を伏せた。「父は母を心配していた。母は妊娠9カ月目だったんです」。
母ウトさんの状態から残った方が良いと判断した父助徳さんは、警察へ行き事情を説明し、「子供を生むまで滞在させてほしい」と頼みこんだ。しかし返答は、「お前の妻はブラジルで生まれたので残って良いが、お前は出ていけ。さもなければ監獄に入れる」という非情なもの。
ウトさんだけを置いていく訳にいかず、助徳さんは怒りと悔しさを堪えて家に戻り、幾つかのトランクに出来る限りの物を詰め込んだ。落ち込んでいる暇はなかった。
ところが、枢軸国移民へ退去命令が下されたことを知った周りのブラジル人が、これをチャンスとばかりに家に入り込み、家族の前で堂々と物を盗み始めた。家財、農具、野菜…営々と築き上げてきた財産が、目の前で全て奪われていく。「警察は何も言わない。悔しくてたまらなかったです」。
夜11時に鉄道駅に到着すると既に大勢の人が居た。ドイツ人、イタリア人もいたが、その多くは日系人。「武装した警察が監視していたためか、命令に反発する人もおらず静かでした」と振り返る。自分たちがこれからどこへ行くかも知らされず、汽車はサンパウロ市に向けて出発した。
「それまでサントスで、人種差別を受けていた意識はありませんでした。海岸でよく遊んでいた記憶があります。サントスの暮らしは天国だった」。その生まれ育った場所を追われ、サンパウロ移民収容所に入った佐久間さんたちは、やがてサンパウロ州郊外のマリリアへ移ることになった。
しかし、佐久間さん一家や日本人移民を襲った苦難は、これでお終いではなかった。(つづく、有馬亜季子記者、次回からは6面に掲載)