佐久間さんは聖州マリリアに到着すると、日本人が経営する「ペンソンもり」に身を寄せた。着いた途端に産気づいた母ウトさんは、無事に子供を出産した。
新しい暮らしを始めて2年目の1945年、ウトさんはもう一度妊娠し、四つ子を出産。しかし未熟児だったために、病院内での適切な治療が必要だった。
ところが「敵国の子だから」とすぐに病院から帰されてしまい、2人は死産。佐久間さんは、今でも「明らかに日本人に対する差別だった」と思っているという。
さらに、悲しい運命を辿ったのが佐久間さんの叔父だった。サントスを追われ、同じくマリリアに移り住んだが、事件のショックからかうつ病になってしまった。
「叔父さんは元々無口で、自分が病気ということは言わなかった。そのまま4、5年が経った頃に、叔父は亡くなってしまった。自分より2歳年上の従兄弟は小学校を卒業後、父の代わりにと働き始めました」。
周りにも「サントス事件の影響からか、または医者に『日本人だから』と敵視されてまともな治療を受けられなかったせいか、目が見えなくなってしまった人もいた」という。突然の強制退去という大事件は、その人の生涯にいろいろな形で尾を引き、影響を及ぼし続けた。
「あの日の事は、いつも考えていた。でも、家族にもこの話はしたくなかった」。封印されていた記憶を呼び起こしたのは、「『群星(むりぶし)』で証言を集めている」と聞いたことがキッカケだ。
「今までサントスの事は何も報道されたことはなかった。だが、どうして日本人はこのような謂れのない仕打ちを受けたのかという気持ちはずっとあった」と胸の内を語り、「誤った歴史を繰り返さないために、この記録は残してほしい」と強い思いを訴えた。
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「サントス強制退去の命令が下された時、何を言われているか全く分からなかった。何かを考える余裕はなかった」。比嘉ゆうせいさん(87、二世)に当時の気持ちを聞くと、少し思案した後にそう語り始めた。
その日、学校から戻ると「24時間以内にここ(サントス)を出なければいけない」と母トシ子さんに告げられた。トシ子さんは、政府から通達を受けた叔父の連絡で、退去命令を知った。
当時、比嘉さんは11歳。学校に通っていたため、「学校が終わってからサントスを出ていく」と伝えたが、母親は切羽詰まった様子で「今すぐ出ていかなければならないの」と返してきた。(つづく、有馬亜季子記者)