また、正輝の家にメーガーじいさん、津波元一もよくやってきた。
サンパウロの留置所でともに過ごして以来、交流がますます盛んになった。メーガーじいさんは、今は家族的にも経済的にも恵まれた境遇にあった。子どもたちはみな成長し、末っ子のルイースはマサユキの同級生だった。石壁ではられたかどの広い家はもうすぐ建築がおわり、裏庭の石鹸工場ではすでに製産が始まっていた。
エレガントな男だった。アララクァーラの9~10月から3~4月にかけての暑い日にむいている白い麻の背広をきていた。麻布は裕福な者たちに好まれた。細い金ぶちの眼鏡をかけ、背広の内ポケットにはそのころ、贅沢品といわれたパーカー51の万年筆をさしていた。日本人、とくに沖縄人の憧れのまとだった。
房子のいちばん上の姉カマドゥーの娘、伊盛カマーの息子エイソーも正輝の親友となった。家族とルセリアに住んでいたが、機会あるごとにアララクァーラにやってきた。大おじ、安里樽の娘フミコと結婚したばかりだった。日本からきたばかりの房子がタバチンガを訪れたとき会った従妹の子のフミコだ。
エイソーはある程度年がいっていたので、母の妹、ウサグァー叔母の悲劇を覚えていた。何年か前正輝の家で殺され、孤児となったネナとセーキを引き取り、実子として戸籍に入れたことで家族の絆を知り、正輝の家をたびたび訪問するようになった。いや、それがだけではない。正輝の人柄にひかれ、話し相手、親友として選んだのだ。
エイソーはブラジル生まれだが、勉学のため日本に送られた。1941年、ブエノス・アイレス丸でブラジルに帰った。船中生活は緊迫状態の連続だった。日本とアメリカの外交がいき詰まり、戦争がさけられない状態だった。8月13日にサントスに入港した船が、最後の移民船となった。そのおり、祖母、つまり、房子のいちばん上の姉を連れてきた。そして、ルセリアで家族に加わった。
正輝が幼少のころ日本を出、長い年月を経ても、祖国を象徴する天皇を崇拝する国粋主義精神をそのまま持ちつづけるという信念の強さ、硬さにエイソーは惹かれていた。正輝の方は高等学校をすませてきたエイソーから最近の国民教育について情報を得たかった。臣道聯盟のエピソード、辛い帝国日本敗戦の受諾、不可能な早期の日本への帰国、その結果、できるだけ早くブラジル社会へ順応する必然性、そういった状況にあって、国粋主義をテーマに論議しあう機会などない。
しかし、何も話さなくても、互いの観念が同じだということを知っていた。だから会えるだけでよかったのだ。
義兄の安里樽(エイソーの大叔父)もいつも正輝を訪れていた。移住当初からの古い付き合いだ。一時期、共に苦難の日々を過ごした。会うと、ピンガやビールを飲みながら、昔話がえんえんとつづいた。いつもアンタルチカの青帯ビールで、冷やさずに常温で飲んだ。
タバチンガ時代の仲間では平井ぼうはる、また、創立間もないパラナ州のロンドリーナ市に移る前には、荻堂(沖縄式にはウギドー)せいそうも正輝の家を訪問した。
だが、なんといっても多かったのはアララクァーラ在住の仲間たちだった。
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